
こんにちは、みちのくです☀️
左大臣の多治比嶋が亡くなりました。持統天皇の時代から朝廷を支えてきた重臣で御年は78歳です。

大宝という新しい時代が始まるなかで、古い時代を支えた人たちが去っていくわけですね。
大宝元年(西暦701年)現代語訳・解説 7月
吉野離宮から帰還する

秋 7月10日(辛巳) 車駕(天皇の車、転じて天皇自身を指す。ここでは持統太上天皇)が吉野離宮から到着した。
車駕至自吉野離宮。
6月29日から行われていた持統太上天皇の吉野離宮行幸が終了しました。「到着した」というのは、藤原宮を指しています。
吉野行幸としては比較的長期間だった
今回の行程は12日間でした。
これまでの行幸と比べて比較的長い方だったようです。
『吉野町史』に掲載された行幸年表によると、持統天皇の吉野行幸はおおむね5~9日間程度で、10日を超える行幸は少数でした(壬申の乱の大道 古田武彦)。

ちなみに最長となったのは20日間を記録した、持統天皇6年(692)7月9日の行幸です。
今回の行幸は二番目に長い行幸でした。
勅により食封を賜う
7月21日(壬辰) 親王以下に勅し、その官位に準じて食封を賜った。
また、壬申の年(壬申の乱の年。天武元年(672))の功臣にも、その功の等第(等級)に従い、各自に差を付けて食封を賜った。
また、次のように勅した。先朝(天武天皇の時代を指す)の論功行賞では、封として村国小依に120戸を、当麻公国見、県犬養連大侶、榎井連小君、書直知徳、書首尼麻呂、黄文造大伴、大伴連馬来田、大伴連御行、阿倍普勢臣御主人(右大臣・阿倍御主人)、神麻加牟陀君児首たち10人には100戸を、若桜部臣五百瀬、佐伯連大目、牟宜都君比呂、和爾部臣君手たち4人には80戸を賜っている。すべて15人は、賞はそれぞれ異なっているとはいえ、その功は中第(中功)である。よって令の規定により、これらの封戸の4分の1を子に相続させること。
また、皇大妃(皇太子草壁皇子の妃。阿閇皇女。文武天皇の母で、後の元明天皇。皇太妃)、内親王、女王及び嬪(天皇の妻の呼称のひとつ)にもそれぞれ差をつけて封を賜った。勅親王已下。准其官位賜食封。
又壬申年功臣。隨功等第亦賜食封。並各有差。
又勅。先朝論功行封時。賜村國小依百廿戸。當麻公國見。縣犬養連(宿禰か)大侶。榎井連小君。書直知徳。書首尼麻呂。黄文造大伴。大伴連馬來田。大伴連御行。阿倍普勢臣御主人。神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸。若櫻部臣五百瀬。佐伯連大目。牟宜都君比呂。和爾部臣君手四人各八十戸。凡十五人。賞雖各異。而同居中第。宜依令四分之一傳子。
又皇大妃。内親王。及女王。嬪封各有差。
これも大宝令施行に関わるもので、令の規定に基づいて食封の対象者に一斉に封戸を授けたものでしょう。また、壬申の乱の功績者対してすでに与えられていた封戸は、「令の規定により」その子へ4分の1を相続せよとしています。
食封とは?
食封(じきふ)とは、本来国に納入される租調庸の物品を個人の給与にすることを認めた制度です。
一定数の戸(世帯)を封戸(ふこ)として割り当て、その戸から納められる租の半数と、調庸の全部が個人に納入されました。
食封の制度自体は大宝令以前からあり、文武天皇元年(697)8月29日にも「王親及び五位以上に、各々差をつけて食封を賜った」とあります。

勅の内容を整理するとこんな感じになります👇
| 対象 | 内容 | 意味 |
|---|---|---|
| 親王以下 | 官位に準じて食封を賜う | 新令に基づく支給・整理 |
| 壬申の乱の功臣 | 「中功」として封戸の4分の1を子に相続させる | 功績に応じた整理、新令の適用 |
| 皇大妃・内親王・女王・嬪 | それぞれ差をつけて封を賜う | 新令に基づく支給・整理 |
「功封」の相続

今回の記事では、壬申の乱の功績によって与えられた封戸(功封)の相続について触れていますね。
養老令の禄令第13【功封条】に以下のように規定されています。
禄令第13【功封条】要約
五位以上で、功封のある者が死亡したら、大功は半減して3世(子・孫・曾孫)に伝えよ。上功は3分の2を減じて2世に伝えよ。中功は4分の3を減じて子に伝えよ。下功は不可とする。

今回の勅では、「中功」が適用されたんですね。「4分の3を減じて」とはつまり、残りの4分の1が子に相続されるということなので、律令規定のとおりに行われています。
薨去(多治比真人嶋)

(続き)
この日、左大臣正二位多治比真人嶋が薨じ(親王または三位以上が亡くなること)た。詔して、右少弁従五位下波多朝臣広足、治部少輔従五位下大宅朝臣金弓を遣わして葬儀を監護させた。
また、三品刑部親王、正三位石上朝臣麻呂に左大臣邸を弔問させ、葬儀のための品を賜った。正五位下路真人大人が公卿の誄(死者を弔い、生前の業績などをたたえる言葉)を、従七位下下毛野朝臣石代が百官の誄を読み上げた。
大臣は宣化天皇の玄孫(四世孫)で、多治比王の子である。是日。左大臣正二位多治比眞人嶋薨。詔遣右少弁從五位下波多朝臣廣足。治部少輔從五位下大宅朝臣金弓。監護喪事。
又遣三品刑部親王。正三位石上朝臣麻呂。就第弔賻之。正五位下路眞人大人爲公卿之誄。從七位下下毛野朝臣石代爲百官之誄。
大臣。宣化天皇之玄孫。多冶比王之子也。
多治比真人嶋(たじひ の まひと しま)は天武・持統・文武の三天皇に仕えた重臣で、『公卿補任』によれば享年78歳でした。
文武天皇4年(700)正月13日条でも「霊寿の杖、輿及び従者を賜った」として詳しく取り上げています

左大臣ということは国政のトップが亡くなったんですね。
これはとても大きな出来事です。

そうですね。刑部親王と、後に左大臣に昇る石上麻呂を弔使として遣わしてることからも、当時嶋が朝廷でどれほど大きな立ち位置にいたのかが伝わります。

まさに政界の重鎮だったわけですね。
多治比嶋の経歴
| 年月日 | 官位・経歴・出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 推古32年(624)頃 | 誕生。宣化天皇の玄孫、多治比王の子。 | 『公卿補任』『続日本紀』 |
| 天武11年(682)4月21日 | 筑紫大宰(後の大宰帥)として大鐘を献上。史料上の初登場。 | 『日本書紀』 |
| 天武12年(683)1月2日 | 筑紫大宰として三足の雀を献上。 | 『日本書紀』 |
| 天武13年(684)10月1日 | 八色の姓の制定により、丹比公を含む13氏が真人の姓を賜る。 | 『日本書紀』 |
| 持統3年(689)閏8月27日 | 直広弐から直広壱に昇進。封戸100戸を加増され、合計200戸となる。 | 『日本書紀』 |
| 持統4年(690)1月2日 | 持統天皇の即位を祝賀し、阿倍御主人とともに賀騰極(即位の賀詞)を奏上。 | 『日本書紀』 |
| 持統4年(690)7月5日 | 正広参を授けられ、右大臣に任じられる。 | 『日本書紀』 |
| 持統5年(691)1月13日 | 封戸300戸を加増され、合計500戸となる。 | 『日本書紀』 |
| 持統10年(696)10月17日 | 致仕(老齢により官職を引退すること)に際して、輿と杖を賜る。 | 『日本書紀』 |
| 持統10年(696)10月22日 | 資人120人を仮に賜る。 | 『日本書紀』 |
| 文武4年(700)1月13日 | 左大臣として、高齢をいたわる詔により霊寿の杖と輿・従者を賜る。 | 『続日本紀』 |
| 大宝元年(701)3月21日 | 大宝令に基づく位階制度への移行に伴い、正広弐から正二位を授けられる。 | 『続日本紀』 |
| 大宝元年(701)7月21日 | 左大臣正二位として薨去。享年78。朝廷から使者が派遣され、葬儀の監護・弔賻が行われる。 | 『続日本紀』 今回の記事 |
この時の太政官(議政官)の成員
嶋の死去により、議政官の構成は以下のようになります。
| 官職 | 位階 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 太政大臣 | ― | 空席 | 適任者がなければ置かれない |
| 左大臣 | ― | 空席 | 嶋の死去により空席に |
| 右大臣 | 従二位 | 阿倍朝臣御主人 | 大宝元年3月21日任官 |
| 大納言 | 正三位 | 石上朝臣麻呂 | 同年3月21日、中納言から昇進 |
| 大納言 | 正三位 | 藤原朝臣不比等 | 同年3月21日、中納言から昇進 |
| 大納言 | 従三位 | 紀朝臣麻呂 | 同年3月21日任官 |
なお、左大臣の空席は和銅元年(708)3月13日に石上麻呂が任命されるまで続きました。
太政官処分
① 造宮、造寺、造塔、造仏の官
7月27日(戊戌) 太政官は次のように処分した。造宮の官は職に準じ、造大安寺・薬師寺の二寺の官は寮に準じ、造塔・丈六(高さ1丈6尺の仏像)の二官は司に準じること。
太政官處分。造宮官准職。造大安藥師二寺官准寮。造塔丈六二官准司焉。
太政官の指令により、造宮、造大安寺、造薬師寺、造塔、造丈六を担当する官制上の位置付けが決まりました。

藤原宮や寺院の造営に関わる官みたいですね。
律令制は大きく二官八省により構成されていて、八省の下には「職・寮・司」を称する官司が置かれていました。これらの区別は、官司の規模や職掌の重要性などによって決められていました。
例えば中務省の下には、中宮職、図書寮、内礼司などがありました。

造営などこれら五つの官は大宝令には規定されていない「令外官」のため、職・寮・司のどれに準じるべきか決めたということですね。
ちなみに、「職」に準ずることとなった「造宮の官」は、翌大宝2年(702)正月8日条に「造宮職」と見えます。さらに、和銅元年(708)3月13日条では「造宮卿」というポストが確認されていることから、造宮職は「造宮省」に格上げされたことが分かります。
「寮」に準ずることとなった「造薬師寺の官」は、6月11日条で「造薬師寺司」として見え、「造大安寺の官」は、大宝2年8月4日条で「造大安寺司」という名前で見えます。

「造宮職」と呼ばれているということは、「準ずる」のではなく実際に「職」に格上げされたということなんですかね?
② 勅任・奏任・判任者の任用手続き
(続き)
官職にこれから選任する者のうち、奏任以上は名籍(名簿)を太政官に送付し、判任は式部省が銓擬(官職に任用する人物を選考すること)の上でこれを送付すること。
凡選任之人。奏任以上者。以名籍送太政官。判任者。式部銓擬而送之。
この処分は、官人の任用に際しての手続きを定めたものですね。整理すると次のようになります。
奏任以上(勅任と奏任)… 任用候補者の名簿を太政官に送る
判任 … 式部省が候補者を選考し、その名簿を太政官に送る
「勅任・奏任・判任」は、官職任命の際の形式です。
勅任 … 天皇の勅旨により任命する
奏任 … 太政官が任命すべき者を選考し、天皇に奏上して任命する
判任 … 式部省が選考し、太政官に申し送った上で任命する
③ 功臣の子や、その養子への食封の相続など
(続き)
また、功臣の食封(7月21日条を参照)は子に相続すべし。もし子がなければ、誰にも相続させてはならない。ただし、兄弟の子を自らの養子とした場合は許可する。その養子もまた子がない場合は、さらに養子を立てて授けることを許可する。
その世代の数え方は、正子(嫡子。後継者と決定した正妻との子で、原則として長男)と同じとする。ただし、嫡孫(嫡子の嫡子)を後継者とした場合には食封を相続することはできない。又功臣封應傳子。若無子勿傳。但養兄弟子爲子者聽傳。其傳封之人亦無子。聽更立養子而轉授之。
其計世葉。一同正子。但以嫡孫爲繼。不得傳封。
これは、7月21日勅での「壬申の乱の功臣」を念頭に置いたものと思われます。
勅では、功臣15人の子に、その食封として授けられていた封戸の4分の1を相続することを命じています。
今回の太政官処分は、この内容をさらに具体化したものです。整理すると、
・食封は、原則として子以外に相続してはならない
→ただし実子がいない場合、兄弟の子を養子にして相続することは許可する
→その養子も子がいなければ、さらに養子を立てて相続することを許可する
・後継者が孫(嫡孫)である場合は、食封を相続できない
・世代の数え方は実子の場合も養子の場合も同じとする。

当時から養子という制度があったんですね。
④ 蔭位の制度を養子にも適用する

(続き)
また、五位以上の子は蔭により出身(官に挙げ用いられること。出世すること)するが、兄弟の子を養子とした場合も蔭による叙位を許す。ただし、嫡孫の場合は許可しない。
又五位以上子。依蔭出身。以兄弟子爲養子聽叙位。其以嫡孫爲繼不得也。
蔭とは、五位以上(貴族)の子が、親の高位をもって特別に高い位階を授けられる制度(蔭位の制)です。
後の養老令の「選叙令」には以下のように定められています。
選叙令第38【五位以上子条】
一位の嫡子に従五位下。庶子(嫡子以外の子)に正六位上。
二位の嫡子に正六位下。庶子に従六位上。
三位の嫡子に従六位上。庶子に従六位下。
正四位の嫡子に正七位下。庶子に従七位上。
従四位の嫡子に従七位上。庶子に従七位下。
正五位の嫡子に正八位下。庶子に従八位上。
従五位の嫡子に従八位上。庶子に従八位下。
三位以上の蔭は、孫に及ぼせ。
今回の処分では、実子としての嫡子だけではなく、兄弟の子を養子とし、これを嫡子と定めた場合にも蔭位を適用することとなりました。ただし、嫡孫(嫡子の嫡子)には許されないとされました。
⑤ 画師、算師、雅楽の師は判任官に準ずる

(続き)
また、画工司(絵画の制作に関わる官司)の画師、主計寮・主税寮の算師、雅楽寮の諸師(歌師、舞師、笛師など)たちは判任の官(②で先述)に準ずることとする。
又畫工及主計主税算師雅樂諸師如此之類。准官判任。
これら「師」として専門技術、特殊技能を持つ職人は判任官(式部省で選考して太政官に名簿を申し送る官)に準ずることとなりました。
次回の記事 大宝元年8月〜10月





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