【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 霊亀2年④ 6月〜7月 巨躯!新羅国の紫驃馬

元正天皇紀(715-724)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
今回は新羅国から、肩までの高さが約165センチもある大きな馬が献上されました!

みちのく
みちのく

そんな馬に乗ったら、降りるときに脚立が必要になりそうですね…。
当時の日本人は乗りこなせたのでしょうか…?



霊亀2年(丙辰・西暦716年)現代語訳・解説 6月〜7月

新羅国の紫驃馬が献上される

6月7日(辛亥かのとい) 正七位上馬史うまのふひと伊麻呂たちが新羅国の紫驃馬しひょうばを二匹、高さ五尺五寸のものを献上した。

正七位上馬史伊麻呂等獻新羅國紫驃馬二疋高五尺五寸。

① 紫驃馬(しひょうば)

紫驃馬のイメージ

「驃」というのは本来、黄色がかった毛色に白色が交じる馬などを意味します。
「驃馬」には他の用例があるものの「紫驃馬」は他例が確認できません。

平安時代に成立した『和名類聚抄』巻第七によると、

驃馬:白鹿毛(しらかげ)の馬
赤驃馬:赤鹿毛(あかかげ)の馬

とされています。
さらに、『デジタル大辞泉』によると、

白鹿毛とは、「馬の毛色の名。全体が黄色がかった淡褐色で、脚に白毛がまじっているもの」
赤鹿毛とは同じく馬の毛色の名で、「赤みがかった茶褐色のもの」

と説明されています。

いづみ
いづみ

こうなってくると紫驃馬も、鹿の毛色を示したものと見るのが自然ですね。

みちのく
みちのく

そうなりますね。ただ、具体的にどのような色をしていたのかまではわかりません。
紫色とはいっても幅広い色味がありますし、濃淡や明暗にも違いがありますから。

② 五尺五寸=およそ165センチ

サラブレッド(画像:ウィキペディア)

五尺五寸は現在の約165cmに相当します。
馬の高さは一般に地面から肩の最高部までの体高を指します。

いづみ
いづみ

それってかなり大きい馬じゃないですか?
肩の高さで165センチということは頭頂部までは2メートル近くまでいくのでは。

みちのく
みちのく

はい。この体高は現代の競走馬であるサラブレッドに匹敵し、当時の日本の馬と比べて非常に大きいです。このことから「巨躯」であることが献上理由の一つと考えられます。

鳥取県の考古学資料によると、古代日本の馬は体高120〜130cm程度が一般的だったとされています。
埋蔵文化センター 調査研究(古代山陰道)(鳥取県公式)

一方で大陸産、特に中央アジアの馬は約150cmに達するとの研究もあり、今回の紫驃馬のルーツは中央アジアだったのかもしれません。
韓国の徐栄教氏が2017年に発表した論文「釜山影島、新羅王室牧場」でも、
霊亀2年の紫驃馬について、「165cmという体高は中央アジア系の馬でなければ考えにくい」と指摘しています。

③ どうやって新羅の馬を入手したのか?

みちのく
みちのく

もうひとつの謎は、馬史伊麻呂はどうやって新羅の馬を入手したのかというところです。調べてみると色々と興味深いことが分かりました。

馬史伊麻呂は渡来系氏族の出身だった

『新撰姓氏録』によると、馬史(うま の ふひと)氏は百済系の渡来氏族だったようです。
さらに、その氏族名が示す通り、職掌も馬に関わるものに就いていた可能性が考えられます。

いづみ
いづみ

名前からしてやはり偶然ではないですよね。
しかも百済系とは、さっそく半島や大陸との繋がりが見えてきました。

同族の馬史比奈麻呂は、天平13年(741)に甲斐国司に任命されています。
当時の甲斐国は馬の生産地でした。馬史氏の人物がその行政に関与していたことも、氏族と馬との関係を考える材料になります。

1年半前に新羅使が入朝している

和銅7年(714)12月26日には、新羅使が入朝し、翌年には朝賀に参列しています。
可能性としては、この時の新羅使と共に紫驃馬がもたらされたのかもしれません。

奈良時代中期ころには、新羅との交易が行われていた

天平勝宝4年(752)の「買新羅物解」という史料には、
この年、新羅使が持参した品々について、日本の貴族や官人が購入を申請しています。

買新羅物解〈天平勝宝四年六月/〉(文化遺産データベース)

みちのく
みちのく

つまり、外交使節による国家間の贈答とは別に、個人による物品購入が行われていたわけですね。

いづみ
いづみ

伊麻呂さんももしかしたら、馬に関わる氏族として新羅の馬を購入したりしていたかもしれませんね。

みちのく
みちのく

霊亀2年当時にも交易が行われていたかどうかは分かりませんが、これも可能性としてはあり得ます。伊麻呂が購入していた二頭の紫驃馬を朝廷に献上したのかもしれません。



美濃守・笠朝臣麻呂に尾張守を兼任させる

6月20日(甲子きのえね) 美濃守従四位下笠朝臣かさのあそん麻呂を、尾張守兼任とした。

美濃守從四位下笠朝臣麻呂爲兼尾張守。

笠朝臣麻呂は美濃守として吉蘇路(きそのみち)の開通に功績があり、和銅7年(714)閏2月1日にはその功績によって封戸や田を賜っています。

いづみ
いづみ

美濃も尾張も交通上かなり重要な国ですよね
それを兼任させるということは朝廷からかなり信任されていたように見えます。

みちのく
みちのく

そうですね。笠麻呂はそもそも慶雲3年(706)からすでに10年間も美濃守を務めています。その業績や経験を認められて尾張守兼任に至ったと見て良いと思います。

実際、和銅2年(709)9月26日には善政を賞され、この時にも田、穀物、衣を賜っています。
その後、養老3年(719)7月13日には尾張・三河・信濃の按察使にも任じられました。

兼任国守の前例

国守兼任の前例は、この時点で確認できるのは、道君首名(みち の きみ おびとな)です。
養老2年(718)4月11日条には、「和銅の末年に筑後守となり、肥後守を兼任した」とあります。

「末年」とありますが、筑後守任官の記録は和銅6年(713)8月26日です。また、肥後守任官については個別の記事は見当たりません。



五位以上王臣につける「資家」の人数について

6月21日(乙丑きのとうし) 次のように制定した。王臣(皇族と臣下)の五位以上で、散位(位階を有するが、特定の官職についていない者)の六位以下を資家に充てようとする者は、一人あたり六人以下とすることを許可せよ。

制。王臣五位已上。以散位六位已下。欲充資家者。人別六人已下聽之。

「資家」は「資人」なのか

みちのく
みちのく

「資家」というのは他に用例が見当たらず、正確には何か分かりませんが、おそらく貴族の家政に従事する「従者」「使用人」といった身分ではないでしょうか。

類似の言葉に「資人」(しじん)があり、これは後の養老令に規定があります(軍防令第49【給帳内条】)。
令では、五位以上の貴族に対して、位階に応じた「位分資人」が支給されていました。
資人は主人の警護や雑務に従事する従者です。その人数は次の通り。

位階資人数
一位100人
二位80人
三位60人
正四位40人
従四位35人
正五位25人
従五位20人
いづみ
いづみ

今回の六人とは数が合いませんね。

「散位」という身分

この項は、「資家=資人」とした場合における、僕個人の解釈です。

みちのく
みちのく

そうですね。ただし、「規定の人数内で、散位六位以下をとるのは六人以内」というように理解すれば不自然ではありません。
たとえば従五位なら「20人中、散位六位以下は六人まで」ということです。

なぜそのようにしたのかというと、「散位・六位以下」という身分に配慮したものではないかと思います。

散位は特定の官職に就いていないとはいえ、いわゆる「無職」ではなく、散位寮に出勤する立場です。
また、国家が必要に応じ、繁忙な官司に臨時に配属されることもあります。

また、六位以下とはいえ、彼らは位階を有する官人です。
五位以上の王臣に仕えることを認めつつも、無制限に私的な従者として抱え込ませることは避けようとした可能性があります。

翌年に関連する詔が出されている

これに関連する内容としては、翌年の養老元年(717)5月17日の詔です。
そこでは、「天下の百姓が各地を浮浪して課役を逃れ、王臣に仕え、資人になることや出家することを望んでいる」という内容が書かれています。

さらに、王臣が本来の所属官司を経ずに、こうした人々を私的に使役していることも問題視されています。つまり、今回の規定が出された翌年には、貴族による従者の私的使用が社会問題になっていたわけです。



和泉監に史生を置く

6月23日(丁卯ひのとう) 初めて和泉監いずみのげんに史生ししょう(下級書記官)三人を置いた。

始置和泉監史生三人。

和泉監(いずみ の げん)は4月19日に設置された、いわば「特別行政区」であり、河内国の三郡を割いて組織されました。
5月28日には公印が交付されています。
今回はその流れの中で「史生」という文書行政の実務にあたる役人を設置したということですね。

いづみ
いづみ

着々と整備が進んでいるように見えますね。



卒去(阿倍朝臣爾閇)

秋 7月27日(庚子かのえね) 従四位下阿倍朝臣爾閇にえが卒しゅっし(四位または五位が亡くなること)た。

從四位下阿倍朝臣爾閇卒。

阿倍朝臣爾閇は以前の記事にも登場しています。

『続日本紀』に見える経歴

年月日出来事
和銅元年(708)3月13日引田朝臣爾閇として長門守に任命される
和銅5年(712)11月20日阿倍朝臣への改姓が認められる
和銅7年(714)正月5日従五位上から従四位下に昇叙
霊亀2年(716)7月27日卒去

爾閇は以前は「引田朝臣」を称していました。
引田氏は阿倍氏の支族でしたが、和銅5年11月20日条では、氏上うじのかみとみられる阿倍宿奈麻呂すくなまろの言上によって、引田朝臣爾閇ら6人が阿倍朝臣への改姓を認められています。



次回の記事

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