
こんにちは、いづみです♨️
なんだか物騒なタイトルですね。

そうですね、といっても何か戦争が起きるわけではありませんけど。
文武天皇3年(己亥・西暦699年)現代語訳・解説 8月〜9月
南嶋の貢物を伊勢神宮などに奉納

8月8日(己丑) 南嶋が献上した物を伊勢大神宮と諸社(多くの神社、複数の神社)に奉った。
奉南嶋獻物于伊勢大神宮及諸社。
これは、7月19日条と一続きの出来事と見てよさそうです。
7月19日には、
「多褹、夜久、奄美、度感などの島民が朝宰(朝廷の官吏)に従って来訪し、方物(土地の産物)を献上した」
とあり、今回はこれを伊勢神宮と各神社に奉納したものでしょう。
続日本紀での前例
朝廷が外部から受け取った献上品を、そのまま国家の神々への供物にすることは前例があり、
文武天皇2年正月17日条では、
「新羅の貢ぎ物を、諸社に奉納した」
とあり、さらにつづく正月19日条では以下のようにも見えます。
「直広参・土師宿禰馬手を遣わして、新羅の貢ぎ物を大内山陵(天武天皇陵)に奉納した」
日本書紀での前例

『日本書紀』には、今回の文武3年8月と同様に「伊勢」に奉納した例も見えます。
持統天皇6年(692)12月24日条では、
「大夫たちを遣わし、新羅からもたらされた調(貢物)を、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉った」

伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足と具体的な社名も出てるんですね、もしかしたら文武3年の奉納の「諸社」もこれらの神社なのかもしれませんね。
百官に季禄を支給する
8月11日(壬辰) 各々差をつけて百官(多くの官人)に禄(給与)を賜った。
賜百官人祿各有差。
ここでいう「禄」は、毎年2月と8月に定期的に支給される「季禄」です。
後の養老禄令の第1【給季禄条】では、各自の官位に応じて、
「絁(目の太い絹)、綿、布、鍬」を一定量支給するというものでした。

大宝令が始まるのは2年後の701年からですが、698年時点でほぼ「季禄」の運用があったことが分かりますね。
祥瑞(白燕)の献上
8月21日(壬寅) 伊予国が白燕を献上した。
伊豫國獻白燕。
「白燕」は文字どおり白いツバメ。
これは祥瑞で、天子の治世が徳に基づいていると天が認めた時、天神がこれを讃えて地上にあらわした特異な自然現象、通常とは異なった姿形をした動物や植物をいいます。
発見の前例
『日本書紀』天智天皇6年(667)6月には山背国葛野郡から白燕が献上されています。
さらに持統天皇3年(689)8月21日には、興味深い記事もあり、
「伊予総領・田中朝臣法麻呂たちに詔し、讃岐国御城郡で捕えられた白燕を放養することとした」
とあります。
『続日本紀』でも複数の白燕の献上記事があり、
慶雲元年(704)7月3日 藤原京の左京職から献上。
神亀2年(725) 山背国・備前国がそれぞれ白燕を献上。
となっています。
近年の報告例

近年というか、令和8年(2026)でごく最近なのですが、発見報告があり地方ニュースになりました。
「非常に珍しい」専門家も驚く“真っ白なツバメ” 福井・永平寺町で見つかる(福井テレビ)5/28
ニュースによると、30年間、毎年民家に巣作りをするツバメを見守ってきた家の人が発見したとのこと。
福井市自然史博物館の出口翔大学芸員によると、色素を作る遺伝子がうまく機能しなかった“白化個体”と呼ばれる「非常に珍しいツバメ」だという。メラニン色素をまったく作ることができないアルビノとは、目の色などで見分けられる。
ニュース記事から引用

古代の人が見つけて「これは朝廷に知らせなきゃ」となった感覚も、案外いまの「テレビ局に連絡しよう」と大差ないのかもしれないですね。
高安城の修理
9月15日(丙寅) 高安城を修理した。
修理高安城。
高安城は、前年(文武2年(698)8月20日)にも修理の記事があり、2年続けて修理が行われたことになります。また、この時期には高安城だけでなく、大宰府管内の諸城(5月25日)や越後国の石船柵(12月21日)など各地の城郭で相次いで修理が行われており、一連の事業のようにも読み取れます。
詔・勅により官人・京畿に武器を備えさせる

9月20日(辛未) 詔により、正大弐(正二位に相当)以下無位(冠位を持たない者)以上の人ごとに、弓矢・甲・桙・兵馬を備えさせた。また、京畿(藤原京とその周縁の諸国)に勅を下し、同じくこれらを蓄えさせた。
詔令正大貳已下無位已上者。人別備弓矢甲桙及兵馬。各有差。又勅京畿。同亦儲之。
皇族以外のほぼ全ての官人が対象
正大弐は上から3番目の冠位であり、その上はごく限られた人員しかいないため、「正大弐から無位の人」となると、ほぼすべての臣下が対象となります。
ただし、皇族と官人では冠位の体系が違うため、ここでは皇族は含まれないものと思われます。
なお、翌年(700)2月27日条には改めて「王臣・京畿」に武具を備えさせる勅が出されており、そこでは皇族も明確に対象に含まれています。
さらに藤原京内のみならず、その周辺国まで範囲を広げるとなると、かなり大規模な備えをさせていたことになります。
6年前にも同様の命令があった
『日本書紀』持統天皇7年(693)10月2日の詔では、
「今年から、親王以下進位の者が保有する武器の検閲を行う。浄冠から直冠までは、人ごとに甲一領・大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚、乗馬を、勤冠から進冠までは、人ごとに大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚をあらかじめ備えること」
とあります。

これらのことから考えるに、具体的な脅威を想定していたというより、武器の備蓄状況を継続的に整え、いつでも動けるような動員能力を確保していた感じが強そうです。
薨去(新田部皇女)
9月25日(丙子) 新田部皇女が薨じ(親王または三位以上が亡くなること)た。王臣、百官人(多くの官人)に勅し、葬儀に参列させた。天智天皇の皇女である。
新田部皇女薨。勅王臣百官人等會葬。天智天皇之皇女也。
新田部皇女は天智天皇の皇女であり、天武天皇の妃で、天武5年(676)には舎人親王を産んでいます。
母は、阿倍氏の女性で、名を橘娘といいます。

天智天皇と天武天皇は同母兄弟ですから、新田部皇女は伯父に嫁いだことになりますね。

そうですね、かなりの近親婚で、そこは当時の時代を感じさせます。
その間に生まれた舎人親王は歴史上の人物としても有名ですね。『日本書紀』編纂の総裁で、養老4年(720)に完成させ、藤原不比等の死後には知太政官事となって政界でも重きをなしました。
新田部皇女には同母姉妹に明日香皇女がおり、明日香皇女もまた翌年の4月4日に薨去となります。
また、持統上皇や後に元明天皇として即位することとなる阿閇皇女とは異母姉妹です。
次回の記事 文武天皇3年10月〜12月
工事中




コメント