【現代語訳】続日本紀 文武天皇4年④ 祥瑞、天から白亀が下される

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
白い亀って真っ白だったんですか?

みちのく
みちのく

白と言っても幅がありますからね。
現代で見られる、突然変異で白くなった亀はふつう「淡い黄色みがある白」といった感じのようです。



文武天皇4年(庚子・西暦700年)解説・現代語訳 7月〜8月

いづみ
いづみ

7月は記事がありませんでした。

神山・山陵・吉野離宮の樹木が原因不明で枯れる

8月3日(戊申つちのえさる) 宇尼備うねび(畝傍)賀久山かぐやま(香具山)成会山陵なりあいのみささぎと吉野宮の辺りの樹木がわけもなくしぼみ枯れた。

宇尼備。賀久山。成會山陵。及吉野宮邊樹木無故彫枯。

いずれも神聖な土地

 宇尼備は「畝傍山」、賀久山は「香具山」と見られ、いずれも藤原京の外縁にある神聖な山であり、耳成山と合わせて「大和三山」と呼ばれ、藤原京の鎮護の役目を担っていました。

 吉野宮は、持統天皇が何度も訪れた吉野離宮のことであり、人里から離れた仙郷として神聖視される地でした。

 成会山陵は、第30代敏達天皇の長子・押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこの山陵、つまり墓です。平安時代中期にまとめられた『延喜式』では「成相墓」という名前で整理されています。

いづみ
いづみ

こういった神聖な山や土地の木が原因不明で枯れたということですから、かなり象徴的というか、当時としてはショッキングな出来事だったでしょうね。

成会山陵の今

宮内庁により「陵墓参考地」とされている

 現在では、明治19年(1886)以来、宮内庁により、奈良県北葛城郡広陵町にある新木山にきやま古墳が押坂彦人大兄皇子の墓の可能性があるとして「三吉陵墓参考地」として指定されています。

いづみ
いづみ

陵墓参考地ということは、ここが皇子の墓だと確定しているわけではないんですね。それにしても、明治19年とは相当昔の話ですね。

現在の研究上は、「牧野古墳」ではないかとされている
みちのく
みちのく

はい、140年も前ですね。なので現在の考古学の研究ではむしろ新木山古墳は否定されがちで、広陵町の文化財説明では、牧野ばくや古墳が成相墓、つまり押坂彦人大兄皇子の墓の可能性が高いと説明されています。

みちのく
みちのく

ちなみに押坂彦人大兄皇子は、今の皇室に直系で繋がるご先祖様です。

⭐️参考 牧野(ばくや)古墳(国指定史跡)広陵町の文化財より



白亀の献上

8月10日(乙卯きのとう) 長門国が白亀を献上した。

長門國獻白龜。

 白い亀が祥瑞として献上されました。祥瑞とは、君主が徳に基づいた良い統治を行っていると天に認められた時、これを讃えて地上に下される貴重な動植物または自然現象のことを言います。つまり、簡単に言ってしまえば「縁起の良いもの」です。

みちのく
みちのく

元から白い亀ではなく、突然変異により普通は白くない亀が白く変化したものが祥瑞と扱われました。

『続日本紀』に見える白亀の事例

 奈良時代には白亀が献上される事例が17件もあります。

月日献上・発見主体内容備考
文武天皇元年(697)9月10日近江国白鱉を献上「鱉」はスッポン
文武天皇4年(700)8月10日長門国白亀を献上今回の記事
養老7年(723)9月7日紀氏白亀を献上長さ一寸半・広さ一寸、両眼赤。神亀改元に関係
神亀3年(726)1月2日大倭国白亀を献上
天平17年(745)10月28日尾張王白亀一頭を得る河内国古市郡。長さ九分・広さ七分、両目赤
天平勝宝4年(752)1月1日大宰府白亀を献上
天平勝宝5年(753)11月2日尾張国白亀を献上
神護景雲2年(768)7月11日日向国白亀赤眼を献上発見者は大伴人益、捕獲地は宮崎郡
神護景雲2年(768)9月11日肥後国白亀赤眼を献上発見者は形部広瀬女、捕獲地は葦北郡
宝亀元年(770)8月5日肥後国白亀を献上発見者は日奉部広主女、捕獲地は葦北郡。宝亀改元に関係
宝亀元年(770)8月17日肥後国白亀を献上発見者は山稲主、捕獲地は益城郡
宝亀3年(772)10月11日肥後国白亀を献上発見者は家部嶋吉、捕獲地は葦北郡
宝亀3年(772)10月11日肥後国白亀を献上発見者は高分部福那理、捕獲地は八代郡
宝亀6年(775)4月13日近江国白亀赤眼を献上
宝亀6年(775)9月15日河内国白亀を進上
いづみ
いづみ

亀そのものが縁起の良い生き物ですよね。神亀と宝亀、2度も元号のきっかけになってるのがすごい✨

みちのく
みちのく

実は天平も亀に由来する元号です。
王貴知百年」の文字が甲羅に現れた亀が献上されたことが記録されています。
「天皇の治世が平和に100年続く」という意味です。
他にも「霊亀」という元号もあります。

玄武は亀の神獣

 奈良時代の「亀」は、単なる長寿イメージだけではなく、四神・方位・天文・王権守護ともつながります。玄武は四神の1つで、北方を守る神獣です。

 キトラ古墳壁画の玄武図像について、キトラ古墳壁画保存管理施設の説明では、玄武の「玄」は北・冬を象徴する黒、「武」は鎧をつけて武装している動物、つまり亀を意味すると説明しています。キトラ古墳では、亀の甲羅が六角形の亀甲文で表現され、蛇が絡みつく姿として描かれています。

⭐️参考 国宝・玄武(キトラ古墳壁画保存管理施設)

いづみ
いづみ

鎧で武装して国を守護する亀、その亀が真っ白な姿で現れたら…これはもう納得の祥瑞感ですね。

みちのく
みちのく

祥瑞感って何ですか…



勅(僧侶の還俗と賜姓)

8月20日(乙丑きのとうし) 勅により、僧の通徳つうとく恵俊けいしゅん還俗げんぞく(僧侶を辞めること)させた。2人の代わりとして、新たに2人を(国が僧侶になることを許可すること)た。
 通徳に、陽侯史やこのふひとの姓と、久爾曽くにそという名を賜い、勤広肆ごんこうしの冠位を授けた。
 恵俊に、きしの姓と、よろしという名を賜い、務広肆むこうしの冠位を授けた。彼らの技芸を用いるためである。

勅僧通徳。惠俊並還俗。代度各一人。
賜通徳姓陽侯史。名久爾曾。授勤廣肆。
賜惠俊姓吉。名宜。授務廣肆。爲用其藝也。

 還俗とは、僧侶を辞めて俗世に戻ることをいい、「度する」とは、国が度牒という許可証を与えて僧侶になることを許可することです。
 僧侶になると俗世としての名前を失い法名を与えられ、反対に還俗して俗世に戻った場合は法名失い、再び俗世の名前が与えられます。

いづみ
いづみ

通徳さんは、陽侯史久爾曽(やこ の ふひと くにそ)さんに改名
恵俊さんは、吉宜(きし の よろし)さんに改名されたということですね。

「芸」とは何だったのか

 「芸」は、現代語の「芸能」ではなく、医術・暦法・陰陽・天文などの特殊技能を指す語と見た方がよいです。早稲田大学の論文では、この記事について、恵俊の「芸」は医術、通徳の「芸」は不詳ながら暦法の可能性がある、と整理されています。

 というのも、吉宜は、養老5年(721)に医術に優れて物を賜り、さらに天平10年(738)には典薬頭という医術を専門にする官司の長官になったと記録されています。

 陽侯史久爾曽については、過去の記録による推定になります。
『日本書紀』推古天皇10年(602)10月条によると「陽侯史」の祖は暦法を習い、その学業を達成したとあるため、この姓を与えられた久爾曽もまた暦法の「芸」があったのではないかということです。

⭐️参考 早稲田大学論文「日本仏教以前の仏教」新川登亀男



全国に赦を下す、高齢者に物を賜う

8月22日(丁卯ひのとう) 天下に赦を下した。ただし、十悪と盗犯はこの赦の範囲に入れなかった。
 高年者に物を賜った。

赦天下。但十惡盜人不在赦限。
高年賜物。

十悪とは

 十悪とは、唐の律(刑法)に規定された特に重たい10種類の罪で、謀反むへん謀大逆むたいぎゃく謀叛むほん・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義・不睦・内乱をいいます。

謀反 国家の転覆
謀大逆 山陵や皇居の破壊
謀叛 国に背いて他国に従う
悪逆 年長の親族への暴行や殺人
不道 残酷な殺人や大量殺人、毒物の所持や呪術の使用
大不敬 大社(伊勢神宮か)や天皇に対する盗みや誹謗
不孝 祖父母や父母への罪
不義 目上や貴人への礼儀に反する罪…
不睦 夫を殴る、訴える罪
内乱 一族の秩序を乱す罪

みちのく
みちのく

今では「謀反」と「謀叛」はどちらも「むほん」と読み、同じ意味に使われていますが、もともとは異なる別個の罪でした。

いづみ
いづみ

不睦…夫婦間の犯罪が国家転覆や殺人と同列に扱われてるのがすごいです。

みちのく
みちのく

「内乱」も、今の「内乱罪」とでは意味が違うので注意が必要ですね。

 なお、十悪は唐の律における法概念で、まもなく完成する大宝律令では十悪のうち「不睦」「内乱」は除かれ「八虐」としてまとめられたようです。



巡察使の奏上

(続き)

 また、巡察使の奏上(天皇に申し上げること)により、諸国の国司それぞれの治績(政治の功績)に従い階を進め、食封じきふを賜った。
 阿倍朝臣御主人みうし、大伴宿禰御行みゆきに正広参(従二位相当)を授けた。
 因幡守勤大壱いなばのかみごんだいいち船連秦勝ふねのむらじはたかつに封戸を30戸、遠江守とおとうみのかみ勤広壱・漆部造ぬりべのみやつこ道麻呂に20戸を賜った。善政を褒めてのことである。

又依巡察使奏状。諸國司等。隨其治能。進階賜封各有差。
阿倍朝臣御主人。大伴宿祢御行並授正廣參。
因幡守勤大壹船連秦勝封卅戸。遠江守勤廣壹漆部造道麻呂廿戸。並褒善政也。

巡察使

 巡察使は臨時に任命されて諸国を監察する官で、直近の派遣はこの年の2月22日(壬寅)です。しかしこの派遣は東山道に向けて、すなわち東国へのものだったので、山陰の因幡守や東海の遠江守への褒賞が行われているのは不審です。
 なので、今回の奏上は前年(699)10月27日(戊申)に派遣されたものなのかもしれません。

いづみ
いづみ

文武3年10月に派遣→
各国を巡察し、国司の治績・非違を確認、記録→
文武4年8月にまとめられた報告事項を奏上する。
…という流れですね💡

食封

 食封じきふは、親王(天皇の子)や高位・高官に租庸調収入を一定額個人の給与とすることを認めた制度です。まもなく施行されることとなる大宝律令では、租の半数と庸調の全部を個人のものとすることが認められました。

みちのく
みちのく

租庸調は本来は国家の収入となるものです。
ですが、親王をはじめとした高官たちには封戸ふこ(食封の対象となる世帯)が割り当てられ、そこから収穫、生産される租庸調を個人の収入としました。

いづみ
いづみ

これはかなりの特権的制度と見てよさそうですね。

みちのく
みちのく

そう。なので、巡察使の奏上により諸国の国司たちに食封を賜ったとありますが、「国司」とは言ってもその長官である「国守」、それも特に功績のあった国守に限定されていたのではないでしょうか。

いづみ
いづみ

それが因幡守と遠江守の2人だったのかもしれませんね。



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