【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年⑤ 6月 持統太上天皇、最後の吉野行幸

大宝年間(701-704)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
持統上皇って、本当に吉野へよく行かれますよね。

みちのく
みちのく

夫の天武天皇との思い出が深い土地ですからね。どんな思いで訪ねられたのでしょうか…。




大宝元年(西暦701年)現代語訳・解説 6月

道君首名に僧尼令の講義を行わせる

6月1日(壬寅みずのえとら) 大安寺で正七位下道君首名みちのきみおびとなに僧尼令そうにりょうの講義を行わせた。

令正七位下道君首名説僧尼令于大安寺。

道君首名(みち の きみ おびとな)は大宝律令撰定のメンバーです。
文武天皇4年(700)6月17日条に、律令撰定の功として名前が挙げられ禄を賜っています。

僧尼令は大宝令内の編目で文字通り僧尼の統制などに関わる規則をまとめたものです。
正七位下というと、位階としては下(30階中の20階)ですが講義を任される優秀な官人でした。



卒去(忌部宿禰色布知)

6月2日(癸卯みずのとう) 正五位上忌部宿禰色布知いんべのすくねしこふちが卒しゅっし(四位または五位が亡くなること)たため、詔により従四位上を贈った。壬申みずのえさるの年の功績(壬申じんしんの乱にかかわる功績)をもってである。

正五位上忌部宿祢色布知卒。詔贈從四位上。以壬申年功也。
いづみ
いづみ

「従四位上を贈った」、つまり生前の功績を顕彰して特別に高い位階を授けたということですね。

みちのく
みちのく

そうです。これを「贈位」といい、特にこの時代は壬申の乱(天武元年・672)で活躍した人物に行われることが多いです。ただし、色布知がどのような活躍をしたのかは明らかではありません。

忌部宿禰色夫知の経歴(日本書紀、続日本紀)

年月日出来事
天武元年(672)壬申の乱で功績を挙げる。ただし具体的な働きは不明。
天武9年(680)正月8日兄の忌部首子首が連の姓を賜り、色弗(色布知)も兄とともに喜んで天皇を拝する。
天武13年(684)12月2日八色の姓の制定に伴い、忌部連を含む50氏が宿禰の姓を賜る。
持統4年(690)正月1日持統天皇の即位式において、神璽の剣と鏡を奉上する。
大宝元年(701)6月2日(今回の記事)正五位上で卒する。壬申の年の功績により、従四位上を追贈される。
持統天皇の即位で剣と鏡を奉る

経歴で特に注目すべきは、持統4年(690)正月1日条でしょう。

忌部氏は祭祀に携わる氏族で、神璽の剣と鏡を天皇に奉上したのは、忌部氏の職掌によるものと見られます。後の養老神祇令第13「践祚条」には、
「践祚の日には、中臣氏は天神の寿詞を奏上し、忌部氏は神璽の鏡と剣を奉上せよ」
とあります。



内舎人90人を任命する

(続き)

 初めて内舎人うどねり90人を任じて太政官において列見れっけん(官人を整列させて点検すること)した。

始補内舍人九十人。於太政官列見。

内舎人(うどねり)は中務省所属の官人で、養老職員令では以下のように規定されています。

職員令第3【中務省条】

内舎人 定員90人。職掌は、帯刀して宿衛(宿直して護衛すること)すること、雑使ぞうし(宮中の雑務)に供奉ぐぶ(奉仕)すること。駕行がぎょう(行幸)の際には前後に分かれで警衛すること。

みちのく
みちのく

つまり天皇の護衛官ですね。特徴としては、帯刀を許されていたこと。
中務省所属ですから、内舎人は武官ではなく文官です。

また、軍防令第46【五位子孫条】には内舎人の任用方法について書かれています。
これによると、五位以上の子孫の21歳以上で、現在官職に就いていない者の中から太政官により選考することとなっています。なお、三位以上の子は選考せずに任用となるようです。

いづみ
いづみ

なるほど、内舎人になるには貴族の子であることが求められたということですね。
最終的な選考を太政官が行うというのも、今回の「太政官において列見した」というのと合致します。

定員90人ということは、今回はその枠いっぱいまで任命したようです。



勅(大宝令に基づく政治、大税の貯蓄)、七道に使者を遣わす、官印見本の配布

6月8日(己酉つちのととり) 次のように勅した。すべての庶務は新令(大宝令)に基づくこととする。また、国宰こくさい(国司)と郡司が大税おおちから(租として納められ、各国の倉庫(正倉)に備蓄された稲。正税)を貯蔵するにあたっては、必ずすべて法に従うこと。もし怠りがあれば、その罪状に従って科断(過ちを裁くこと)する。
 この日、使いを七道(畿内を除く全国)に遣わし、新令に基づいて政務をとることと、大租だいそを給することについて告げさせた(大租の管理権を国司に委譲することか。後述)。ならびに、新しい官印の見本を頒布した。

勅。凡其庶務。一依新令。又國宰郡司。貯置大税。必須如法。如有闕怠。隨事科斷。
是日。遣使七道。宣告依新令爲政。及給大租之状。并頒付新印樣。

大宝令の規定が順次施行されるにあたり、「庶務のすべては新たな令に基づくものとする」と勅により宣言されました。

これは中央だけではなく、国司と郡司にも命じられ、七道に使者を派遣し、特に大税の取り扱いには念を押して「必ずすべて法に従うこと」と宣告し、怠りがあれば罪を科すとしています。

大宝令以前は地方に「税司」があった

なぜ大税の扱いが強調されているのかというと、これは大宝令施行に伴って「国司に租税の管理権が委任されたから」です。

みちのく
みちのく

ヒントは翌年の大宝2年(702)2月28日条にあります。

大宝2年2月28日 諸国の国司に初めて鑰(かぎ、錠前)を支給して、任地へ向かわせた。【これより以前においては税司の主鑰しゅやく(物品の出納を司る官司)が管理していたが、ここに至って国司に給うこととしたのである】。

大宝令以前では、地方には「税司」という官司が置かれていました。
詳しい任務は不明ながら、その下に「主鑰」という倉庫の出納を司る官吏がいて、各国の正倉のかぎを管理していました。

いづみ
いづみ

大宝令では税司が廃止され、倉庫の管理が国司に一元化されることとなったんですね。そしてこれが今回の「租税管理厳命」の理由だったと。

「大租」も大宝令以前の用語か

今回の勅では「大税」と「大租」という語が使い分けられています。
これは単なる表記揺れではなく、新旧制度の違いによるものと思われます。

『精選版 日本国語大辞典 』の「大租」の意味では、

「令制前に、各国に蓄積されていた田租。その管理徴収権は中央官司の税司主鎰にあり、国司にはなかったが、大宝元年(七〇一)大宝令の施行にあたり、管理徴収権は国司に移され、大租を納めた倉の鑰(かぎ)も国司に渡されて、以後この語は使われなくなった。」

とあります。

みちのく
みちのく

勅の後半にある、七道諸国に対して「大租を給することについて告げさせた」というのは意味が不明瞭ですが、これは「大租の管理権を旧来の税司から国司へ委ねることを告示した」という意味と捉えると自然です。

いづみ
いづみ

なるほど、そしてこれを具体的に実行したのが、翌年2月28日のかぎの受け渡しだったわけですね。



造薬師寺司の任命

6月11日(壬子みずのえね) 正五位上波多はた朝臣牟胡閇と従五位上許曽倍こそべ朝臣陽麻呂を造ぞう薬師寺司に任じた。

以正五位上波多朝臣牟胡閇。從五位上許曾倍朝臣陽麻呂。任造藥師寺司。

造薬師寺司は、国家による薬師寺の造営事業を担当した官司です。
ここでいう薬師寺は、現在の奈良市にある薬師寺ではなく、藤原京に造営された薬師寺(現在の本薬師寺跡)です。


本薬師寺跡

薬師寺そのものは、3年前の文武天皇2年(698)10月4日に「造営があらかた完了したため、僧たちに詔してその寺に住まわせた」とあることから、ほぼ完成状態にあったと思われます。

いづみ
いづみ

つまり造薬師寺司は、これを1から造営する役所というよりは、すでにある薬師寺の管理運営を担当するものと見るのが自然ですね。

なお、造薬師寺司はこの年の7月27日条で「寮」に準ずる官司と位置付けられることとなります。



皇族と侍臣に宴を賜う

6月16日(丁巳ひのとみ) 王親(皇親、皇族)と侍臣(君主の側に仕える臣)を招き、西の高殿で宴を催した。それぞれ差をつけて御器膳(天皇用の食器でふるまわれる食事か)と帛(白い絹)を賜った。

引王親及侍臣。宴於西高殿。賜御器膳并帛各有差。

藤原宮内で宴を催されたようですが、特定の祝賀行事や儀式との関係は確認できません。
また、宴が開かれた理由についても不明です。

みちのく
みちのく

ただ、皇族と侍臣を対象にしていたということで、かなり身近な人を対象にしていたようです。

いづみ
いづみ

「御器膳」がふるまわれたというところからも近しい感じを受けますね。

みちのく
みちのく

「御器」とはすなわち天皇の食器。「膳」は食事のことを言います。
なので、御器膳とはこれに盛り付けられた食事を指すと思われます。

この「御器膳」という語は、この年の正月16日の宴にも見えます。

西楼(西の高殿)と東楼の使い分け?

みちのく
みちのく

今回の「西の高殿」の宴に直接関係する、なかなか興味深い研究があります。
西高殿は比較的私的な宴会のために使われた施設だったのではないかというものです。

竹内亮「藤原宮大極殿をめぐる諸問題」(2009)

竹内氏は、藤原宮の東楼と西楼について、それぞれ次のような役割分担が存在した可能性を指摘しています。

東楼 … 公的な政務を行う場所
西楼(西の高殿) … 私的な宴会を行う場所

その根拠は、『続日本紀』に見える東楼・西楼の使用例に基づくものです。
例えば東楼では、
慶雲4年(707年)6月24日、即位直前の元明天皇が八省の長官や五衛府の長官らを召し、文武天皇の遺詔について告げています。
一方、西の高殿では大宝元年(701)6月16日に今回のような宴が行われ、翌大宝2年(702)正月15日にも、西閣で群臣を招いた宴が催されています。

いづみ
いづみ

もうちょっとサンプルが多ければいいのですが。



四畿内国に祈雨を行わせる

6月25日(丙寅ひのえとら) 季節の雨が降らないため、四畿内国(大倭国、河内国、山背国、摂津国)に命じて祈雨を行わせた。これらの国には今年の調を免除した。

以時雨不降。令四畿内祈雨焉。免當年調。

この年には4月15日にも諸社に幣帛を奉り、名山・大川で祈雨を行っています。
それから約2か月後の6月25日にも雨が降らず、再び祈雨を命じたことになります。

この年は、少なくとも春から初夏にかけて雨不足が続いていた可能性があります。

みちのく
みちのく

ちなみに、調を免除したとありますが、畿内国の調はもともと他の国よりも人民の負担が半減されています。



持統上皇の吉野行幸

6月29日(庚午かのえうま) 太上だいじょう天皇(持統上皇)は、吉野離宮に行幸した。

太上天皇幸吉野離宮。

太上天皇は、譲位した天皇で一般的に略称で「上皇」と呼ばれます。
今回は、文武天皇の祖母であり、先代の天皇の「持統太上天皇」ですね。

みちのく
みちのく

この行幸の記事が史料上に見える「太上天皇」の語の初見です。

吉野行幸の復活

持統上皇は、しばらく絶っていた吉野への行幸を再開しました。
天皇に在位していた時には、吉野への行幸をかなり頻繁に行っており、『日本書紀』によると、31回もの吉野行幸が記録されています(称制期間含む)。

いづみ
いづみ

上皇となっておよそ四年、吉野行きを復活したということですね。
どういった心境の変化があったのでしょうか…。

持統上皇、最後の吉野訪問となった

上皇は翌大宝2年(702)12月22日に崩御します。
そのため、結果的にこれが持統上皇にとって生前最後の吉野離宮行幸となりました。



次回の記事 大宝元年7月

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