
こんにちは、みちのくです☀️
今回は遣新羅使の帰国、新羅使の来訪、遣唐使を見据えた造船など、海外が絡んだ記事が多めです。

孔雀がやってくるんですか!
文武天皇4年(庚子・西暦700年)解説・現代語訳 9月〜10月

9月の記事はありません。
製衣冠司の設置
冬10月8日(壬子) 京畿(藤原京とその周辺の国)の90歳以上の僧尼に絁、綿、布を施した。
初めて製衣冠司を設置した。施京畿年九十已上僧尼等絁綿布。始置製衣冠司。
製衣冠司は、間もなく施行される大宝律令の官司としては確認できません。このことから、律令施行直前の服制整備に伴って置かれた臨時的な官司と見るのが自然です。

名前からして「衣冠を製する司」ですから、官人の衣服・冠の製作を担当した官司ですよね。

はい、特に大宝律令施行を目前に控えてますから、官人の服制や朝儀に必要な衣冠を調達するために臨時に置かれたものであった可能性が高いのではないでしょうか。
翌年の元日記事には、朝賀の儀式について「文物の儀はここに備わった」と語られ、正月の準備を急ピッチで進めていたことは十分に考えられることです。
なお、『続日本紀』でこの製衣冠司の名が見えるのは、この条だけで、上部官司や、長官任命や交代、いつ廃止されたのかなどは不明です。
筑紫総領などの任命
10月15日(己未) 直大壱(正四位上相当)石上朝臣麻呂を筑紫総領(大宰帥の前身)に任命した。直広参(正五位下相当)小野朝臣毛野を大弍(次官)に任命した。
直広参波多朝臣牟後閇を周防総領に任命した。
直広参上毛野朝臣小足を吉備総領に任命した。
直広参百済王遠宝を常陸守に任命した。以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。
直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。
直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。
直廣參百濟王遠寶爲常陸守。
筑紫・周防・吉備の3箇所には「総領」という職が置かれていたようです。これら3箇所の共通点としては、交通・港湾・国防などの要地であることが挙げられます。特に筑紫総領は、任命者の冠位が他2国のものより高く、次官も任命されていることから重要視されていたようです。
この年の6月3日(庚辰)条では、「竺志総領」という名称で現れ、南九州で起きた官人への強奪事件を罰しており、その支配領域は九州全体にあったことが分かります。

筑紫総領は後の大宰帥、つまり九州諸国を管轄し、朝鮮半島や大陸との玄関口ともなった大宰府の長官の前身であると見られます。よって「総領」職は筑紫、周防、吉備それぞれの方面を広域で支配するものであったのでしょう。
実際、大宝2年(702)8月16日(辛亥)条では筑紫総領に任じられていた石上麻呂が、初代大宰帥に任命されています。
吉備総領

吉備国は現在の岡山県全域、兵庫県西部、広島県東部などを範囲とする広い国で、山陽道の陸路や瀬戸内海の海運などを抑えた有力な国でした。律令以後は備前国・備中国・備後国・美作国に分かれたので、吉備総領はその時点で消滅したと思われます。
周防総領


周防国は今の山口県の東南部ですね。筑紫と吉備に比べると範囲は広くないように思えますが…。

名前こそ「周防総領」ですが、周防だけでなく、その北部日本海側の長門国の防衛・軍事にも関与していたのではないでしょうか。その点ではやはり、広域の官だったと言えます。

なるほど、確かに瀬戸内海と関門海峡方面、さらに日本海側の海運や防衛を考えると、周防と長門を一体的に扱うのは自然です。
「常陸総領」の存在
『続日本紀』にはその名は見えませんが、『常陸国風土記』には、孝徳天皇の時代(645〜654)に常陸周辺の郡の成立に関与した総領の存在が見えます。もっとも、「常陸総領」という固有の官名が見えるわけではなく、単に「総領」とされています。
『風土記』によると、孝徳天皇の時代には、相模国(今の神奈川県)の足柄坂(足柄峠)よりも東側は大宝律令後のようなまとまった国々があったわけではなく、大まかな範囲として「我姫国」と呼んでいたようです。

足柄峠は今でも神奈川県と静岡県の県境になっている場所ですね。
その我姫国を統括していたのが総領だったということですか?

おそらくそうです。当時は常陸国という名前はなかったようで、足柄坂よりも東はすべて「我姫国」と言った、と風土記にはあります。その後、時期は不明ですが、8つの国が分立したとも書いてあります。

なるほど、、それなら「常陸総領」より「我姫総領」の方が名前としてはしっくりきそうですね。
今回の『続日本紀』の記事には、筑紫・周防・吉備には総領が任じられる一方、常陸には常陸守が任じられています。このことから、東国方面の総領は、西国に先行して解体されて国司制へ移行していた可能性があります。
周防総領・吉備総領もまた、この後の『続日本紀』には登場せず、制度として継続した様子は見えません。大宝律令の施行により、筑紫総領は大宰府へとつながった一方、周防・吉備などの総領は廃止され、国司に再編されたと考えられます。

律令の整備とともに歴史の役割を終え、姿を消したと言うことですね。
遣新羅使の帰国、孔雀が献上される

10月19日(癸亥) 直広肆佐伯宿禰麻呂たちが新羅から到着し、孔雀や珍品を献上した。
直廣肆佐伯宿祢麻呂等至自新羅。獻孔雀及珍物。
この年の5月13日(辛酉)に遣新羅大使に任命された佐伯麻呂たちが帰国してきました。
新羅から孔雀がもたらされたのは初めてではなく、『日本書紀』推古天皇6年(598)8月1日(己亥)にも1羽が献上されたことが見えます。「新羅から」と言っても孔雀は朝鮮半島には生息しないため、新羅原産ではないと思われます。
孔雀と聞いてまず思い浮かべるのは「インドクジャク」でしょう。インドクジャクは、インド・パキスタン・ネパール・ブータン・スリランカ・バングラデシュ辺りに生息しています。
ほか、東アジア寄りでは「マクジャク」という種もいるようですが、こちらも生息域は東南アジアから中国南部であり、朝鮮半島にはいないようです。


どちらの孔雀かは分かりませんが、いずれにしても、唐または更に西方などからもたらされた孔雀が新羅を通して日本にたどり着いたということですね。

遠路はるばる…ですね。大切にしてもらえたのでしょうか。
周防国に造船を命ずる

10月26日(庚午) 周防国に使者を遣わして舶(大きな船)を造らせた。
遣使于周防國造舶。
短い記事ですが、さまざまなことが読み取れます。
まず、「舶」という字は「大きな船、大船」を意味します。つまり通常の船とは異なっていたということです。これをわざわざ使者を遣わして造らせたということは、少なくとも定例作業、通常業務としての造船ではなく、国家事業としての、臨時の造船事業があった可能性があります。

臨時で大きな船が必要になる国家的事業といえばまさか…

遣唐使ですね!
この翌年の大宝元年(701)5月頃に遣唐使が筑紫から出航したようで、造船から出航までの時間感覚も合います。もっとも、この時は風波が荒く結局途中で断念し延期となったようですが。
さらに、この直前の10月15日(己未)に周防総領を任じていることも、この事業の統括体制と関係する可能性があり、この説の補強証拠になります。
新羅使が来朝し、新羅王の母の喪を告げる

11月8日(壬午) 新羅使の薩飡(新羅の17官位の内の第8位)金所毛が来朝して母王(新羅王の母・神穆王后)の喪を告げた。
新羅使薩飡金所毛來赴母王之喪。
神穆王后の死
新羅から弔使が来て、新羅王の母の喪を告げました。
この時の新羅王は孝昭王、そしてその母は神穆王后(神睦王后とも表記される)であり、韓国古代史料DBによると、新羅の「聖暦3年(700)6月1日(庚子)」に亡くなったことが「皇福寺石塔舎利函銘」に見えるとあります。
⭐️参考 新羅使 金所毛가 母王의 喪을 알림(韓国古代史料DB)
皇福寺石塔の場所
日本・新羅関係は正常に見える

10月19日(癸亥)に遣新羅使の佐伯麻呂さんたちが日本に帰国したばかりですね。
もしかしたら新羅からの弔使は遣新羅使の船と同行してきたのかも?

時系列を考えれば十分に考えられると思います。
5月13日 佐伯麻呂を遣新羅大使に任命
6月1日 神穆王后が亡くなる
10月19日 佐伯麻呂ら、新羅より帰国。孔雀・珍物を献上
11月8日 新羅使・金所毛が来朝し、母王の喪を告げる
佐伯麻呂が出発の直前か、または新羅滞在中に神穆王后が亡くなったということは、麻呂たちが帰国して朝廷に復命した時点で神穆王后が亡くなったことが日本に伝わったはずです。
ただし、これは麻呂が帰国報告すれば済む話ではなく、外交儀礼として新羅側から正式に使節を送る必要がありました。

文武天皇の時代になって初めての日本新羅間の通交でしたが、外交儀礼はちゃんと機能しているように見えますね。
金所毛はその後、日本で亡くなる
翌年の正月14日(戊子)、金所毛は滞在中の日本で亡くなることとなります。
正月1日の元日朝賀では「蕃夷(外国)の使者」として見え、朝賀にも参加していたとみられますが、原因不明ながら間もなく死亡となりました。

全国で盗賊の被害が発生

11月21日(乙未) 全国で盗賊があちこちに出没したため、使者を派遣して逐捕(追い捕えること)させた。
天下盜賊往々而在。往遣使逐捕。
特定の国や、「畿内」などではなく「天下」すなわち全国的に盗賊被害が頻発していたようで、治安の悪化が見て取れます。律令がほぼ完成し、国家体制を急ピッチで作り変えていく真っ最中であるため、その反動や軋みが発生していたのでしょうか。

この時期は、戸籍・課役・国司による支配・巡察使による監察などが強まっていたはずなので、地方社会ではかなりの負荷がかかっていたと思います。
社会の変化に適応できず逃亡・浮浪者が出て、それが集団となり盗賊化するということはある意味で自然とも言えます。
3つ子を産んだ母への手当て

11月28日(壬寅) 大倭国葛上郡の鴨君糠売が一度に2男1女を産んだため、絁4疋・綿4屯・布8端・稲400束と乳母1人を賜った。
大倭國葛上郡鴨君粳賣一産二男一女。賜絁四疋。綿四屯。布八端。稻四百束。乳母一人。

こちらは量としてはどうなのでしょう、手厚いのですか?

とても手厚いと思います。特に稲400束が大きいです。
稲1束は約3キログラムとされているため、400束は約1200キログラムです。
それに加えて乳母1人という人的支援も行なっているのでかなり手厚いと言えるでしょう。
ただし、現代感覚のような「米1200kg」ではなく「稲の束」が1200kgなので、食用にすればもっと分量は減ります。

なるほど、「束」が単位ですもんね。
それでも手厚さは分かりました。小型の車1台分の重さはありますよね。
疫病の流行

12月26日(庚午) 大倭国(奈良県。後の大和国)に疫病が流行したため、医師と薬を賜ってこれを救わせた。
大倭國疫。賜醫藥救之。
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