【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 霊亀元年⑥ 7月 元明天皇最後の行幸

元明天皇紀(708-715)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
何度も行った場所って、最後にもう一度行けたらちょっと嬉しいですよね。

いづみ
いづみ

甕原みかのはら離宮も、元明天皇にとってそんな場所だったのかもしれませんね。

※霊亀への改元はこの年の9月なので、正確には霊亀元年7月は和銅8年です。
しかし、『続日本紀』は改元が行われた年の正月に遡って「元年」とする形式なので、これに従っています。



霊亀元年(乙卯・和銅8年・西暦715年)現代語訳・解説 7月

日蝕

秋 7月1日(庚辰かのえたつ) 日蝕があった。

日有蝕之。

この日蝕は日本から観測可能だったようです。
NASAによると最大食は午後2:45ごろ、最大食地点は日本のかなり北東、オホーツク海〜千島・カムチャツカ方面で、金環日食だったとのことです。

ただし、日本本土から確認できたのは部分日食で、平城京からは午前11時30分ごろに最大となったようです。

律令制における日蝕の意味についてはこちらの記事をご覧ください。

いづみ
いづみ

祈雨が天に通じてお祝いムードだったのに翌月には日蝕ですか…朝廷が微妙なムードになってそうですね。

みちのく
みちのく

しかもこの後の10日には地震も発生してしまいます。
天変地異は本当に人のままにならないもので、理解不能だったと思います。



地震、行幸(甕原離宮)

7月10日(己丑つちのとうし) 地震があった。
 甕原みかのはら離宮に行幸した。

地震。
行幸甕原離宮。
いづみ
いづみ

元明天皇の甕原離宮行幸は4度目になります。
わずか2年ほどの間に4回、しかも霊亀元年だけで2回です。

これまで確認してきたのは、

和銅6年(713)6月23日
和銅7年(714)閏2月22日
霊亀元年(715)3月1日
霊亀元年(715)7月10日(今回)

の4回です。

みちのく
みちのく

これまでさまざま考察してきましたが、この短期間でのたび重なる行幸を見るに、甕原離宮は元明天皇がかなり好んでいたと見てよさそうです。

いづみ
いづみ

持統天皇の吉野行幸を彷彿とさせるペースですね。
元明天皇にとっての「吉野」が甕原だったのかも

みちのく
みちのく

そうですね。とはいえ吉野ほどには王権の象徴地、歴史的舞台とも言えず、どこまで深い意味があったのかはやはり結局は分かりません。

なお同日に地震が発生していますが、これはたまたま行幸の日と重なっただけであり、地震が行幸のきっかけになったというようなものではないでしょう。



優れた学士に穀100斛を賜う

(続き)

 従五位下紀朝臣浄人ら数人に穀100こく(穀物の容量を計る単位)を賜った。優れた学士だからである。

賜從五位下紀朝臣淨人數人穀百斛。優學士也。

紀清人は以前にも登場しています。

和銅7年(714)2月10日 詔により、正八位下三宅臣藤麻呂と共に国史(日本書紀とみられる)の撰定を命じられる。当時の位階は従六位上。
霊亀元年(715)正月10日 詔により、従六位上から昇叙し、従五位下を授けられる。

流れを見ると、この前年に国史編纂へ抜擢されたのも偶然ではなく、紀清人が当時朝廷内で学識を高く評価された文人官僚だったことがよく分かります。

しかもこの後も評価は続いていて、養老5年(721)には山上憶良らとともに東宮(皇太子。後の聖武天皇)に侍して教育にあたり、さらに「学業に優れ、文章もんじょうの師範とすべし」と評価されて褒賞されています。

「斛」という単位についてはこちらで解説しています。



賜姓(大狛連)

7月13日(壬辰みずのえたつ) 授刀舍人たちはきのとねり狛造こまのみやつこ千金の氏姓を改め、大狛連おおこまのむらじを賜った。

授刀舍人狛造千金。改賜大狛連。

狛造千金(こま の みやつこ ちかね)の氏(うじ)と姓(かばね)の両方を改めて、
大狛連(おおこま の むらじ)の氏姓を授けました。

この人物は、「狛」という氏から高句麗系の渡来氏族とみられる人物です。
古代日本では「高句麗」を「こま」と呼びました。また、 「高麗」「狛」と書いて「こま」と読ませる例もあります。
『日本書紀』も「高麗」を「こま」と訓ませています。

いづみ
いづみ

「狛」から「大狛」とは、分かりやすくグレードアップしてますね。

授刀舎人

千金の肩書きである「授刀舎人」は、慶雲4年(707)7月21日に新設された令外官(律令に規定されていない官職)で、帯刀して天皇・皇太子の近辺を警護する親衛的な組織だったと考えられています。

みちのく
みちのく

前年6月25日には首皇子も元服し皇太子となっており、授刀舎人の重要性は確実に増しているタイミングですね。



去(穂積親王)

7月27日(丙午ひのえうま) 知太政官事ちだいじょうかんじ一品穂積親王が薨じた。
 従四位上石上朝臣豊庭、従五位上小野朝臣馬養を遣わし、喪事を監護させた。天武天皇の第5皇子である。

知太政官事一品穗積親王
遣從四位上石上朝臣豊庭。從五位上小野朝臣馬養。監護喪事。天武天皇之第五皇子也。

穂積親王は天武天皇の第5皇子で(諸説あり)、母親は大蕤娘おおぬのいらつめ(蘇我赤兄あかえの子)といいます。
『日本書紀』天武2年条によると、同母きょうだいとして紀皇女と田形皇女が挙げられています。

知太政官事

慶雲2年(705)9月5日以来、約10年間にわたって「知太政官事」という、太政官を統括するポストに在任していました。

知太政官事という職について詳しくはこちらをご覧ください。

いづみ
いづみ

太政官の構成員が少なくなっている状況でしたが、筆頭者が亡くなってさらに手薄になってしまいましたね。

みちのく
みちのく

そうなんですよ。
空席が多く、これで太政官はたったの5名となってしまいました。
しかも首席の左大臣・石上麻呂はこのとき旧藤原京にいたと思われるので実質的には4人です。

官職人物備考
知太政官事空席
太政大臣空席適任者がなければ置かれない
左大臣石上麻呂正二位。藤原京の留守に任じられている。
右大臣藤原不比等正二位
大納言空席
中納言粟田真人正三位
中納言阿倍宿奈麻呂従三位
中納言巨勢麻呂従三位
参議なし

表 『続日本紀』に見える穂積親王の経歴

年月日位・官職記事内容
大宝2年(702)12月23日二品持統上皇崩御後、作殯宮司に任命される
大宝3年(703)10月9日二品持統上皇の御葬司で御装長官に任命される
慶雲2年(705)9月5日知太政官事・二品去した刑部親王の後任として、太政官の統括者に就任
慶雲3年(706)2月7日知太政官事・二品季禄を右大臣に準じて支給することが定められる
和銅元年(708)7月15日知太政官事・二品石上麻呂・藤原不比等らとともに元明天皇の御前に召され、百寮を率先する高官として訓示を受ける
霊亀元年(715)正月10日知太政官事・一品二品から一品へ昇叙
霊亀元年(715)7月27日知太政官事・一品



新たに席田郡を建てる

(続き)

 尾張国の人・外従八位上席田君むしろだのきみ邇近と新羅人74家を美濃国に移貫いかん(戸籍を他の地に移籍すること)し、初めて席田むしろだ郡を建てた。

尾張國人外從八位上席田君邇近及新羅人七十四家。貫于美濃國。始建席田郡焉。

席田郡は美濃国、つまり今の岐阜県の本巣市南部~北方町北部あたりにあった郡ですが、その名前は明治時代の合併により消滅しています。

席田氏の名を冠した「席田郡」

面白いのはその郡名で、もともと尾張国人だった席田君邇近が美濃国に移住し、そこで氏の名を冠する「席田郡」が建てられたというところです。

いづみ
いづみ

そうなると、邇近さんは地方での有力者で、新羅人74家というのも同行者というよりは彼に引率されてきたと考えると自然ですね。

みちのく
みちのく

そうですね。彼は当時すでに「外従八位上」という公式の位階を朝廷から授けられている身であることからも、現地人の指導者だった可能性が頷けます。
『続日本紀』には書かれてはいませんが、新たに建てられた席田郡の郡司にも任じられたかもしれません。



次回の記事 霊亀元年8月〜9月

更新をお待ちください。

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