【現代語訳】続日本紀 文武天皇4年②3月〜5月 大宝律令、完成は間近

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は完成を間近に控えた大宝律令についてです。

いずみ
いずみ

よろしくお願いします。




文武天皇4年(庚子・西暦700年)解説・現代語訳 3月〜5月

(令の学習、律の編集)

3月15日(甲子きのえね) 諸王と諸臣にみことのりし、令の条文を読み習わせた。また、律の条文を編纂させた。

諸王臣讀習令文。又撰成律條。

 完成を間近に控えた律令を、諸王と諸臣に読み習わせました。「」は刑罰を定めたもの、「」は国を統治するための基本的な法令(行政法や民法や軍事など)のことです。

みちのく
みちのく

この律令は一般的に、翌年(701)3月に建てられた元号「大宝」の名を借り「大宝律令」と呼ばれるものです。

いづみ
いづみ

改新の詔(大化2年・646)で「律令国家」の樹立を目指して半世紀あまり。
改革の完成も間近というわけですね!

「令」はほぼ完成、「律」はまだ編纂中

 このとき、律令の「令」の部分については、実際に王臣たちに読み習わせるという、ほぼ完成段階にあったようですが、「律」の方はまだ編纂途中という状況だったようです。原文にある「撰成」とは、必要な条文を選び、整理し、ひとつの法典としてまとめ上げることです。
つまり、体系的な法典としては、いまだ編纂作業の途中であったことがうかがえます。

みちのく
みちのく

この年の6月17日(甲午きのえうま)条では、「律令が撰定された」として撰者たちに禄を支給しており、この時点で律・令ともにほぼ完成状態にあったものと見られます。




牧地を定めて牛馬を放牧する

3月17日(丙寅ひのえとら) 諸国に命じて牧地を定め、牛馬の放牧を行わせた。

令諸國定牧地放牛馬。

 牛や馬は物資輸送、駅馬(官人や使者が移動のために用いる官馬)、軍用馬などの用途に必須の家畜でした。庸・調などの貢納物の輸送や役人の移動は、律令制に基づいた国家運営になくてはならないものと言えます。

みちのく
みちのく

牛馬の飼育環境を整えることは重要な課題だったことは間違いないでしょう。




去(明日香皇女)

夏 4月4日(癸未みずのとひつじ) 浄広肆明日香皇女じょうこうしあすかのひめみここうじた。使者を遣わして弔問させ、賻物ふもつ(葬儀のための品)を贈った。天智天皇の皇女である。

淨廣肆明日香皇女。遣使弔賻之。天智天皇之皇女也。

 明日香皇女は天智天皇の皇女です。母親は阿倍氏の女性で橘娘たちばなのいらつめという人です。先帝である持統上皇の異母妹にあたり、前年9月25日(丙子ひのえねに亡くなった新田部皇女は同母妹です。

柿本人麻呂の挽歌

 明日香皇女が亡くなったとき、宮廷歌人・柿本人麻呂により挽歌ばんか(人の死をいたむ歌、弔いの歌)が詠まれ、『万葉集』に3首収められています。

みちのく
みちのく

長い歌なので、一部の内容を要約したものを以下に掲載します。

『万葉集』巻第2 挽歌(部分要約)
明日香皇女の城上きのへ殯宮あらきのみやの時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首(歌番号:196)

春には花を髪に挿し、秋にはもみじ葉をかざして親しい夫君と手を取り合って遊んでおられたのに、夫君のもとを去ってしまわれたのですか。
もう永遠に妻に会えなくなった夫君は、朝鳥(毎朝巣から飛び立つ鳥)のように毎日殯宮に通われ、夕星ゆうつづ(夕方の西の空に見える星。金星。宵の明星)のように落ち着かずあちらへ行ったりこちらへ来たり、夏草のようにしおれてしょんぼりとされている。まるで大船が波間を漂うように心を落ち着かせることができずにいる。
その姿を見ると、こちらも悲しみを慰めるすべがない。

いづみ
いづみ

旦那さんととても仲がよかったんですね…。親しい人の死に遭い、どうすることもできず心が空っぽになってしまったような、あまりに悲しい歌です。

みちのく
みちのく

夫の名は明らかではないですが、天武天皇の皇子の忍壁皇子ではないかという説があります。



遣新羅使の任命

西暦700年ごろの朝鮮半島

5月13日(辛酉かのととり) 直広肆じきこうし(従五位下相当)佐伯宿禰麻呂を遣新羅大使に任命した。勤大肆ごんだいし(従六位下相当)佐味朝臣賀佐麻呂を小使に任命した。大位、少位を各1人、大史、少史を各1人とした。

以直廣肆佐伯宿祢麻呂。爲遣新羅大使。勤大肆佐味朝臣賀佐麻呂爲小使。大少位各一人。大少史各一人。

『続日本紀』の遣新羅使(日本から新羅への遣使)の初見です。

ただし、『三国史記』(朝鮮半島の高句麗・百済・新羅3国の歴史をまとめた歴史書)に記される、孝昭王7年(698)3月条には、「日本国の使者が来た。王は崇礼殿で引見した」とあり、これは文武天皇2年に当たります。

つまり、『続日本紀』の遣新羅使初見は文武4年5月条ですが、文武天皇の治世においてはすでに2年前に遣使が行われていた可能性があります。

文武天皇2年(698)2月3日(甲午きのえうま)条には、新羅使(新羅から日本への使者)が自国に帰国したという記事があり、『三国史記』に記される「日本国に使者」というのは、この新羅使の帰国船に同乗して渡ったのではないかという可能性も指摘されています。

いづみ
いづみ

やや複雑なので、時系列でまとめてみました。

年月日往来出来事備考
文武天皇元年(697)10月28日新羅使(来日)新羅使の大使・金弼徳、副使・金任想らが来日文武天皇の即位を祝賀する使節か
文武天皇2年(698)2月3日新羅使(帰国)金弼徳ら新羅使が帰国日本に数か月滞在した
文武天皇2年(698)3月遣新羅使?(行)日本国の使者が新羅を訪れ、新羅王が崇礼殿で引見『三国史記』より。『続日本紀』には対応する遣使記事がない。帰国する金弼徳らに同行した答礼使だった可能性がある
文武天皇4年(700)5月13日遣新羅使(行)佐伯宿禰麻呂を遣新羅大使、佐味朝臣賀佐麻呂を小使に任命今回の記事。大位・少位、大史・少史も各1人置かれた
文武天皇4年(700)10月19日遣新羅使(帰)佐伯麻呂らが新羅から帰国孔雀や珍しい品物を献上した

同年10月に帰国

今回の遣新羅使の佐伯麻呂らは同年10月19日に帰国し、新羅から持ち帰った孔雀と珍物を朝廷に献上しています。



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