こんにちは、みちのくです☀️
今回は文武天皇4年(700年)の3月から12月までの記事をとりあげていくよ!
よろしくお願いします!♨️
文武天皇4年(西暦700年)解説&現代語訳
大宝律令
3月15日(甲子) 王臣たちに詔し、令の条文を読み習わせた。また、律を編集させた。
完成を間近に控えた律令を、王臣(皇族と臣下)に講習させました。
律令は、「律」と「令」であり、
「律」は刑罰を定めたもの、つまり刑法。
「令」は国を統治するための基本的な法令のことです。
このとき、「令」については完成に近づいた内容を、王臣に勉強させる最終段階に入っていたようですが、「律」の方はまだ編集中という状況だったようですね。
この律令は、翌年(701年)に定められた元号「大宝」の名を借りて「大宝律令」と呼ばれます。
大化の改新から15年…「律令国家」の大改革がとうとう完成するんですね!
完成が正式に報告されるのは、次の年の8月3日になりますけどね。
明日香皇女
3月17日(丙寅) 諸国に命令し牧地を定めて、牛馬を放牧させた。
夏4月4日(癸未) 浄広肆明日香皇女が薨じた。使いを遣わして弔いの品を贈った。天智天皇の皇女である。
明日香皇女は、天智天皇皇女。母親は、阿倍氏の女性で橘娘という人です。
先帝である持統女帝の異母妹(腹違いの妹)にあたります。
皇女が亡くなったとき、宮廷歌人・柿本人麻呂による挽歌(人の死をいたむ歌、弔いの歌)が詠まれ、『万葉集』に3首収められています。
『万葉集』巻第2 歌番号196より要約
「春には花を髪に挿し、秋にはもみじ葉をかざして親しい夫と手を取り合っていたのに、なぜひとり逝ってしまわれたのですか。もう永遠に妻に会えない夫は、朝鳥のように毎日墓に通われ、夕星のように落ち着かずあっちに行ったりこっちに行ったり、夏の枯れ草のようにしょんぼりとされている」
旦那さんととっても仲がよかったんですね。悲しい歌です。
夫の名は明らかではないですが、天武天皇の子の忍壁皇子ではないかという説があります。
明日香川 明日だに見むと思へやも 我が大君の 御名忘れせむ
『万葉集』巻第二 198番歌
(要約)
「皇女と同じ名を持つ明日香川を見るたび、あなたに明日だけでもお会いしたいと思ってしまう。明日香皇女、あなたのお名前を忘れはしない」
明日香川…私も見にいきたいです!
遣新羅使、九州地方の事件
5月13日(辛酉) 直広肆佐伯宿禰麻呂を遣新羅大使に任命した。勤大肆佐味朝臣賀佐麻呂を小使に任命した。大少位を各1人、大少史を各1人とした。
文武天皇の時代になり、初めて日本から新羅に使者を送りました。
佐伯氏は軍事氏族で、大伴氏と同族です。著名な人物としては、蘇我入鹿殺害事件のとき、入鹿の脚を斬りつけた佐伯子麻呂、正三位・参議として公卿の地位まで昇りつめた佐伯今毛人がいます。
6月3日(庚辰) 薩末の、比賣・久賣・波豆・衣の4評(郡)督の衣君縣と助督の衣君弖自美
また、肝衝難波が肥の人々を従え、武器を持ち、国覓使の刑部真木たちを脅迫し物を奪った。
ここにおいて、竺志の総領に勅を下し、犯罪として罰した。
薩末、のちの薩摩(現在の鹿児島県)ですが、当時はまだ「薩摩」という字が使われていませんでした。
「肥」も同様で、のちに肥前国・肥後国になりました。
竺志は「筑紫」に変わり、のちに二カ国に分けられて筑前国・筑後国と呼ばれるようになります。
評(こおり)は郡と同じものです。
評督は郡の長官、助督は次官です。
国覓使の「国覓」とは「くにまぎ」とも読み、覓=求。
「国を求める」つまり、住み良い地を求めるための使者ということです。
襲われた刑部真木は以前の記事にも登場したことがあり、文武天皇2年(698)に南の島の人々を従えるために派遣され、翌年に任務を完了し帰国したことが伝えられる人物です。
国の使者を襲って物を奪った…これって大事件ですよね。
犯罪というか、戦争になりそうな気がしますけど、、
確かにそうですね。
ちなみにどんな罰を科せられたのかは分かりません。
大宝律令の撰者たち
6月17日(甲午) 浄大参刑部親王、直広壱藤原朝臣不比等、直大弐粟田朝臣真人、直広参下毛野朝臣古麻呂、直広肆伊岐連博得、直広肆伊余部連馬養、勤大壱薩弘格、勤広参土師部宿禰甥、勤大肆坂合部宿禰唐、務大壱白猪大骨、追大壱黄文連備・田邊史百枝・道首名・狭井宿禰尺麻呂、追大壱鍜造大角、進大壱額田部連林、進大弍田邊史首名・山口伊美伎大麻呂、直広肆調伊美伎老人らに勅を下し、律令を撰定させた。各自に差をつけて禄(給与)を賜った。
刑部親王(忍壁親王とも)は、天武天皇の皇子です。
親王を首席に、藤原不比等(藤原鎌足の子)を次官にすえ、以下19名のメンバーに律令編修の給与を支給したという記事です。
粟田真人、伊岐博得(伊吉博徳)は遣唐使として唐の律令に学んだ経験者。
下毛野古麻呂は下野(栃木県)に本拠を置いた豪族です。律令編修においても19人中4番目に名前が書かれていることからも分かるように、地方に出自を持つ人物としては異例の出世を遂げた人物です。
下野市のWEBサイトから、↑のマンガが無料で読むことができます☀️
土師部甥も、入唐経験者。
薩弘格は、唐から来日し、漢文の読みを教えた学者。
伊余部馬養は、書物編集の専門家であり『浦島太郎』の作者とされる人物。
道首名は、若くして律令制度に明るく、善政を敷き、後世まで官吏の模範とされた人物。
田邊史(たなべのふひと)姓の人物が2人いますが、藤原不比等はこの田辺氏により養育されたため「不比等」と名付けられたとされています。
還俗した2人の僧侶、巡察使の奏上、赦、制衣冠司・総領など
8月3日(戊申) 宇尼備賀久山成会山陵 と吉野宮の辺りの樹木がわけもなくしぼみ枯れた。
8月10日(乙卯) 長門国が白亀を献上した。
8月20日(乙丑) 僧の通徳と恵俊に勅を下し、還俗させた。その代わりに2人を度した。
通徳に、陽侯史の姓と、久爾曽という名を賜い、勤広肆の冠位を授けた。
恵俊に、吉の姓と、宜という名を賜い、務広肆の冠位を授けた。彼らの芸能の技能を用いるためである。
宇尼備賀久山成会山陵は、第30代敏達天皇の長子・押坂彦人大兄皇子の墓です。
今の皇室に繋がる直系のご先祖様です。
還俗とは、僧侶が俗の世に戻ることをいいます。
度するとは、国が度牒という許可証を与えて僧侶になることを許可することです。
僧侶になると、俗世の名前を失い法名を与えられます。
反対に還俗して俗世に戻った場合、法名を失い、再び俗世の名前が与えられます。
通徳さんは、陽侯史久爾曽さんに改名
恵俊さんは、吉宜さんに改名されたということですね♨️
8月22日(丁卯) 天下に赦を下した。ただし、十悪・盗人はこの赦の範囲に入れなかった。高齢者に物を賜った。
また、巡察使の奏上によって諸国の国司に詔して、その能力に従い階をすすめ、封戸を賜った。阿倍朝臣御主人、大伴宿禰御行に正広参の冠位を授けた。因幡守勤大壱船連秦勝に封戸を30戸、遠江守勤広壱漆部造道麻呂に20戸を賜った。善政を褒めてのことである。
十悪とは、特に重たい十種類の罪で、謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義・不睦・内乱をいいます。
国家の転覆…謀反
御陵や皇居の破壊…謀大逆
国に背いて他国に従う…謀叛
年長の親族への暴行や殺人…悪逆
残酷な殺人や大量殺人、毒物の所持や呪術の使用…不道
大社(伊勢神宮か)や天皇に対する盗みや誹謗…大不敬
祖父母や父母への罪…不孝
目上や貴人への礼儀に反する罪…不義
夫婦間の不和…不睦
一族を乱す罪…内乱
今では「謀反」と「謀叛」はどちらも「むほん」と読み、
同じ意味に使われていますが、もともとは異なる別個の罪でした。
不睦…夫婦仲が悪いと犯罪になってしまうんですね…おそろし、、
「内乱」の罪も、今の「内乱罪」とでは意味が違うので注意が必要ですね。
冬10月8日(壬子) 京畿の90歳以上の僧尼に絁、綿、布を施した。
初めて制衣冠司を設置した。
10月15日(己未) 直大壱石上朝臣麻呂を筑後総領に任命した。直広参小野朝臣毛野を大弍に任命した。
直広参波多朝臣牟後閇を周防総領に任命した。直広参上野朝臣小足を吉備総領に任命した。
直広参百済王遠宝を常陸守に任命した。
制衣冠司(または「製衣冠司」)は詳細不明ですが、その名が示す通り、官人の服や冠といった制服の製作を担当した官職と思われます。が、「制衣冠司」は律令に定めがありません。
総領(筑後総領・周防総領・吉備総領)は交通・港湾・国防など、国の支配上重要な地に置かれ、行政や軍事を担当する官だったようですが、律令制以後は体制が変わり、総領という職は廃止されたようです。
筑紫総領も存在しましたが、おそらく筑後総領と同時に太宰府に改編・吸収されたものと思われます。
古代、特に律令制以前の制度は謎が多いです
謎が多い方がロマンも感じますけどね♨️
新羅・盗賊出没・疫病など
10月19日(癸亥) 直広肆佐伯宿禰麻呂たちは、新羅から到着し、孔雀などの珍しい物を献上した。
10月26日(庚午) 使者を周防国に派遣して船をつくらせた。
11月8日(壬午) 新羅使の薩飡金所毛が来朝して母王の喪を告げた。
5月13日に遣新羅大使に任命された佐伯麻呂が帰国してきました。
多くの時代を通して、基本的に日本と新羅は敵対関係にありましたが、この時代は新羅との関係は比較的良好だったようです。
新羅は676年に、分裂していた朝鮮半島を統一して安定期に入り、国力が次第に強くなってきていました。そのため日本としても友好関係を保つ政治方針がとられたものと思います。
この金所毛という人物ですが、当時の新羅王の姓は金氏だったので、
この人は王族だったようです。
金さんですか。今と同じですね!
そうですね〜(掘り下げない)
11月21日(乙未) 全国に盗賊の被害が多発したため、使いを派遣して追捕させた。
11月28日(壬寅) 大倭国葛上郡の鴨君糠賣が一度に二男二女を産んだため、絁4疋・綿4屯・布8端・稲400束と乳母1人を賜った。
12月26日(庚午) 大倭国に疫病が流行したため、医師と薬を賜ってこれを救わせた。
賣(売の旧字体)は「め」と読み、当時の女性の名前に多く付けられました。
綿4屯とありますが、もちろん今の単位のトン(t)とは違います。
1屯=40匁で、150グラムほどの重さとされています。
参考書籍など
次回予告
文武天皇4年の記事を駆け足で見てきました!!
ボリュームいっぱいでしたね。おつかれさまでした〜💦
続日本紀の第1巻はこれにて終了です!☀️
引き続き続日本紀の第2巻につづきます!
Zzz…(↓次の記事に飛べます)
コメント