【現代語訳】続日本紀 文武天皇4年②3月〜5月 道昭和尚の物語

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は、日本で初めて火葬されたと記録される人物のお話です。

いずみ
いずみ

いきなり最期から入るんですね。




文武天皇4年(庚子・西暦700年)解説・現代語訳 3月〜5月

道照の出自と、その人柄

3月10日(己未つちのとひつじ) 道照和尚どうしょうわじょうが物化(死去)した。天皇は、甚だこれを惜しみ悼み、使いを遣わして弔いの品を贈った。
 和尚は、河内国丹比たじひ郡の人である。俗姓は、船連ふねのむらじであり、父の恵釈えさかは、少錦下しょうきんげ(天智天皇の時代の冠位。五位に相当)である。和尚は、戒律をよく守り修行を怠ることがなかった。とりわけ忍辱にんにくの修行を尚とうとんだ。
 かつて弟子が、和尚の本性を見究めようとして密かに便器に穴を空け、ここから漏れ出た汚物により、布団を汚した。そのとき和尚は微笑して「いたずら小僧が人の寝床を汚したな」と言うだけで、ついに他に一言も言うことはなかったという。

道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。
和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。父惠釋少錦下。和尚戒行不缺。尤尚忍行。
甞弟子欲究其性。竊穿便器。漏汚被褥。和尚乃微笑曰。放蕩小子汚人之床。竟無復一言焉。
いづみ
いづみ

便器に穴!?いたずら小僧のレベルをはるかに超えてますって!

みちのく
みちのく

これはなかなか強烈なエピソードですね。道照和尚が「本当に何しても怒らないのか」を弟子に試されたわけですが「まったく、いたずら小僧め(笑)」で済まされて本当に何も怒られなかったと。

いづみ
いづみ

そこまでやって本当に怒らなかったら逆に怖いですよ。

みちのく
みちのく

道照和尚は忍辱(にんにく)という、精神的苦しみを耐え忍び、他者に対して寛容になることを目指す修行を尊んだとあります。この逸話も、この忍辱の修行が身についていた証といえるでしょう。

いづみ
いづみ

だとしても布団が汚物まみれはかなりの苦痛ですよ

唐から法相宗を伝えた僧侶

道照(または道昭)は法相宗ほっそうしゅうの僧です。
出家前の姓は船連(ふね の むらじ)で、その名の通り造船に携わる氏族です。

和尚は、僧侶に対する敬称であり「わじょう」、「おしょう」、「かしょう」などの読みがありますが、全て使い分けられていて、法相宗の場合は特に「わじょう」と読みます。

いづみ
いづみ

以前にも義淵という法相宗の高僧がいましたね。

みちのく
みちのく

そうです。義淵もまた法相宗ですが、道照は直接唐から経典を持ち帰り、義淵はその経典を学び、弟子たちに広く講義して後世に伝えた人物ですね。

文武天皇3年(699)11月29日(義淵に稲一万束を施す)




玄奘三蔵との出会い

(続き)

 道照は孝徳天皇治世の白雉はくち4年(653)に、初めて遣唐使に従って入唐した。たまたまそこで玄奘三蔵げんじょうさんぞうに会い、これを師として修行した。三蔵は道照を特にかわいがり、同じ部屋に住まわせた。
 三蔵は「私は昔西域に行き、道中で飢えに苦しんでいたが、食を乞う村もなかった。そこで一人の沙門しゃもん(僧侶)が現れ、手に持っていた梨を食べさせてくれた。私はこれを食べてからというもの、日に日に気力が満ち健やかになった。お前は、あのとき梨を持っていた沙門と同じだ」と道照に語った。
 また、さらに言うことには「経論きょうろん(経と論の教え)は深妙で難解であり、すべてを究めることは不可能だ。お前はむしろ禅を学んで東土(日本)に伝えてはどうか」と。そこで和尚は教えを受け、初めて禅定ぜんじょう(精神を集中して瞑想する仏教修行)を習い、これにより学び悟ることが次第に多くなった。

初孝徳天皇白雉四年。隨使入唐。適遇玄弉三藏。師受業焉。三藏特愛。令住同房。
謂曰。吾昔往西域。在路飢乏。無村可乞。忽有一沙門手持梨子。与吾食之。吾自啖後氣力日健。今汝是持梨沙門也。
又謂曰。經論深妙不能究竟。不如學禪流傳東土。和尚奉教。始習禪定。所悟稍多。
いづみ
いづみ

三蔵ってもしかして、あの有名な三蔵法師ですか?
実在の人物だったんですね!

みちのく
みちのく

いかにもです。西域を越えて、はるばる天竺まで行ってきたのもフィクションではなく実話なんですね。

いづみ
いづみ

それにしても道照和尚、三蔵さまにとっても気に入られてますね。
「お前は、あのとき梨を持っていた沙門と同じだ」という言葉は三蔵さまにとって和尚はそれだけの因縁的な出会いだったわけですね。

みちのく
みちのく

なぜ三蔵がそのように感じたのかは直接には分かりませんが、ここでもやはり、道照和尚の人柄がいかに優れ、また他者から愛される人だったのかが伝わってきますね。

三蔵とは仏教の聖典の「経蔵・律蔵・論蔵」をいい、「三蔵法師」はこれを修めた偉大な僧侶という意味です。そして「玄奘」が三蔵法師の僧侶としての名となります。

玄奘は、『西遊記』の話のとおり天竺(インド)に到達して経典を唐に持ち帰るという使命を果たしました。時に西暦645年、日本ではちょうど「大化の改新」の時のことでした。

いづみ
いづみ

そして道照和尚と出会うのがその8年後ということですね!

玄奘との別れ、そして帰国

(続き)

 後に、道照は帰朝する遣唐使に従い、別れに臨んだ。三蔵は所持する舎利と経論をすべて和尚に授けて、「『人能よく道を弘ひろむ』という言葉を今、お前に託そう」と言った。さらにひとつの鍋を授けて、「この鍋は私が西域から持ち帰ったものだ。これで煮て作った物は必ず病を養い、神験しんげんをもたらさないことがない」と言った。和尚は、三蔵を拝し礼を言い、声を上げて泣きながら別れを告げた。
 登州(遣唐使が出発する港があった)に到ったとき、多くの遣唐使が病となった。和尚はその鍋で粥を煮て皆にふるまったところ、その日のうちに病気を治してしまった。

於後隨使歸朝。臨訣。三藏以所持舎利經論。咸授和尚而曰。人能弘道。今以斯文附屬。又授一鐺子曰。吾從西域自所將來。煎物養病。無不神驗。於是和尚拜謝。啼泣而辞。
及至登州。使人多病。和尚出鐺子。暖水煮粥。遍与病徒。當日即差。

「人能く道を弘む」とは『論語』中の孔子の言葉で、これには続きがあります。

「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず」
→「人が道(道徳)を広めるのであり、道が人を広めるのではない」
すなわち、「道徳や規範とは、人が努力によって高めていくものであり、道徳そのものが人格を高めてくれるものではない」
という教えです。

みちのく
みちのく

三蔵は道照に、唐で学んだことを日本で活かし、「道」を道照自身の努力で広めていってほしいと餞はなむけの言葉を贈ったのでした。

いづみ
いづみ

三蔵さまは「梨の沙門」に出会い、その三蔵さまは道照さんに出会う。
道照さんがいただいた霊験ある鍋が登州で病にかかった遣唐使たちを救った。
「恩」が三蔵・道照を通じて別の人々へ伝播していくように見えてきますね。

帰国は時に西暦661年、斉明天皇治世7年のことでした。




三蔵の鍋を海中に投ずる

 纜ともづな(船を固定する綱)を解き、風にしたがい唐を出発したものの、船が海上で漂蕩ひょうとう(水に漂い、さまようこと)し、進まなくなることが七日七夜もの間続いた。多くの人が怪しんで「風は良好で、計算上はもう本国に着いても良さそうなものなのに、船は未だに到着しない。これは何か訳があるに違いない」と言った。そこで卜人ぼくじん(占い師)が言うに「龍王が鍋を得たがっているのだ」と。
 和尚はこれを聞き、「この鍋は三蔵が施してくれたものだ。龍王はどうしてこれを求めるのだ」と言った。多くの人たちが、「今この鍋を惜しんで与えなかったら、おそらくは船が沈み、皆すべて魚に食われてしまいます」と言った。
 そこで鍋を海中に投げ入れたところ、たちまち船が進み無事本朝に帰ることができた。

既解纜順風而去。比至海中。船漂蕩不進者七日七夜。諸人怪曰。風勢快好。計日應到本國。船不肯行。計必有意。卜人曰。龍王欲得鐺子。
和上聞之曰。鐺子此是三藏之所施者也。龍王何敢索之。諸人皆曰。今惜鐺子不与。恐合船爲魚食。
因取鐺子抛入海中。登時船進還歸本朝。
いづみ
いづみ

道照さんの悔しさが前面に出てますね。
三蔵さまの形見とも言える不思議でありがたい鍋を早くも手放さなくてはならなくなってしまいました。

みちのく
みちのく

しかし、この鍋を海中に投じることによって結果としてここでも「三蔵の鍋が遣唐使たちを救った」ということにもなるわけです。

いづみ
いづみ

この時代、荒れる海を鎮めるために船から経論を投げ入れたり、時には僧侶自身が海中に身を投じるようなこともあったそうですね。
鍋を投じることによって、道照和上自身や、三蔵から授かった大量の経論を失わずに済んだとも言えそう。

帰国後は禅行を広め、全国の公共事業に励む

(続き)

 和尚は、元興寺がんごうじの東南の隅に、禅院を建てて住んだ。時に、天下の修行者たちが和尚から禅を学んだ。
 後に天下(全国)を周遊したとき、路傍(道ばた)に井戸を掘り、ところどころの津(港、船着場)に船を造り、渡りに橋を造った。山背やましろ国(後の山城国。京都府)の宇治橋は、和尚の初めて造ったものである。

於元興寺東南隅。別建禪院而住焉。于時天下行業之徒。從和尚學禪焉。
於後周遊天下。路傍穿井。諸津濟處。儲船造橋。乃山背國宇治橋。和尚之所創造者也。
いづみ
いづみ

三蔵さまの言われた通り、帰国後は禅を伝えることにしたのですね。
それにしても、当時の僧侶は船をつくったり橋をかけたり…いろんなことをするんですね。

みちのく
みちのく

この時代、特に大陸に渡った学問僧は仏教だけでなく、高度で実用的な専門知識を持つ人たちでもありました。
とりわけ道照は船氏という出自ですから、造船については特に詳しかったのかもしれませんね。

不思議な晩年と火葬

(続き)

 周遊すること10年余りになったころ、勅があり、請われて禅院に戻りそこで住むこととなった。もとのように坐禅をすること、あるいは三日に一度、あるいは七日に一度立ち上がるという様子であった。
 ある日、香気がにわかに和尚の房(部屋)からただよい、弟子たちが驚き怪しんでうかがうと、和尚は縄床じょうしょう(坐禅の時に用いられる、縄を張ってつくった粗末な腰掛け)に座ったまま息を引き取っていた。時に72歳であった。
 弟子たちは遺言に従って粟原の地で火葬した。天下の火葬はこれより始まったのである。
 世が伝えていうに、火葬が終わったあと、親族と弟子が相争って和尚の遺骨を取り収めようとした時、たちまち飄風ひょうふう(つむじ風)が起き、骨や灰をどこかに吹き飛ばしてしまったという。時の人はこれを不思議なこととして語った。
 後に平城に遷都した時、和尚の弟と弟子たちは、禅院を新京に建てることを奏聞そうもんした。今の平城京右京の禅院がこれである。この院には多くの経論があり、その筆跡は端正で美しく、誤りがない。これはすべて皆、和尚が唐から将来(外国の地から新たに伝えられた物事)してきたものである。

和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。坐禪如故。或三日一起。或七日一起。
倏忽香氣從房出。諸弟子驚怪。就而謁和尚。端坐繩床。无有氣息。時年七十有二。
弟子等奉遺教。火葬於粟原※。天下火葬從此而始也。
世傳云。火葬畢。親族与弟子相爭。欲取和上骨斂之。飄風忽起。吹颺灰骨。終不知其處。時人異焉。
後遷都平城也。和尚弟及弟子等奏聞。徙建禪院於新京。今平城右京禪院是也。此院多有經論。書迹楷好。並不錯誤。皆和上之所將來者也。

※粟原は「栗原」とするものもある。

高僧の死と芳香
いづみ
いづみ

座禅をしたまま息を引き取った時、にわかに香気が発した…。
これは「不思議なできごと」ということでしょうか、それとも、自らの死を悟った道照さんがこれに臨んで香を焚いたとか…そういうことなのでしょうか?

みちのく
みちのく

これは「不思議で、しかも霊験ある神聖な出来事」と取るのが自然だと思います。
高僧が死の間際に体やその周囲の空間から不思議な芳香を発するという例は多く、典型的な高僧入滅の表現と見てよさそうです。

慧旻(6~7世紀)
道昭より少し前の唐僧です。『続高僧伝』には、死の三日前から「異香、寺に満つ」とあり、人々が不思議がると、本人が「私は後日去る」と自分の死を予告しています。

懐玉(8世紀)
『宋高僧伝』では、本人が「異香を聞いたなら、私の命は尽きようとしている」と言い、その後実際に「香気が空に満ち」、阿弥陀仏らの来迎を見て、微笑して亡くなったとされます。

記録上初めての火葬

道照の火葬は、記事中に「天下の火葬はこれより始まった」とあるように、日本の記録上最も古いものです。

ただし考古学的には、道照以前の6~7世紀にさかのぼる可能性のある火葬墓も確認されており、火葬という葬法自体はこれ以前にも行われていた可能性があります。

みちのく
みちのく

ちなみに、そのわずか数年後には持統上皇も火葬され、天皇在位中ではないものの、天皇経験者としては最初の火葬です。

いづみ
いづみ

これまでの葬送の主流は土葬だったんですよね。でも古墳の衰退や仏教の広まりとともに火葬が取り入れられるようになっていった、ちょうどこの時代は葬法の移り変わりの過渡期だったのかもしれませんね。

みちのく
みちのく

道照自身が「遺言により」火葬することを弟子に伝えています。これは裏返せば、火葬にするにはわざわざ遺言をのこすことが必要であり、一般的ではなかったことを意味してますよね。

国史で初めての本格的な「薨卒伝」

道照の伝記は、『続日本紀』ひいては国史で初めての本格的な「薨卒伝」です。
これは死亡記事に続けて、その人物の出自・経歴・人柄・業績・逸話などをまとまって記す形式で、『続日本紀』にはこの形式の人物伝が計54人ほど確認されています。

道照の次の本格的な薨卒伝として挙げられるのは、養老2年(718)4月に亡くなった道君首名(みちの きみ おびとな)で、実に18年後です。

さらにその次が道慈法師で、これは天平16年(744)で26年後です。

このように薨卒伝が載せられるのはかなりまばらなのですが、天平宝字4年(760)辺りからは密度が上がります。
光明皇后(760)、巨勢関麻呂、紀飯麻呂、石川年足(762)、鑑真(763)、藤原弟貞、藤原仲麻呂(764)と、かなり短い間隔で人物伝が続きます。

みちのく
みちのく

このような流れの中で道照の長大な人物伝が突然現れるので、かなり異様です。

いづみ
いづみ

記事の冒頭では「天皇が甚だこれを惜しみ悼み」とあるように、天下の人々に愛され尊敬されていた人だったんですよね。続日本紀の編集者も「これは載せる価値がある」と思ったのでしょうね。




詔(令の学習、律の編集)

3月15日(甲子きのえね) 諸王と諸臣に詔みことのりし、令の条文を読み習わせた。また、律の条文を編纂させた。

詔諸王臣讀習令文。又撰成律條。

 完成を間近に控えた律令を、諸王と諸臣に読み習わせました。「律」は刑罰を定めたもの、「令」は国を統治するための基本的な法令(行政法や民法や軍事など)のことです。

みちのく
みちのく

この律令は一般的に、翌年(701)3月に建てられた元号「大宝」の名を借り「大宝律令」と呼ばれるものです。

いづみ
いづみ

改新の詔(大化2年・646)で「律令国家」の樹立を目指して半世紀あまり。
改革の完成も間近というわけですね!

「令」はほぼ完成、「律」はまだ編纂中

 このとき、律令の「令」の部分については、実際に王臣たちに読み習わせるという、ほぼ完成段階にあったようですが、「律」の方はまだ編纂途中という状況だったようです。原文にある「撰成」とは、必要な条文を選び、整理し、ひとつの法典としてまとめ上げることです。
つまり、体系的な法典としては、いまだ編纂作業の途中であったことがうかがえます。

みちのく
みちのく

この年の6月17日(甲午きのえうま)条では、「律令が撰定された」として撰者たちに禄を支給しており、この時点で律・令ともにほぼ完成状態にあったものと見られます。




牧地を定めて牛馬を放牧する

3月17日(丙寅ひのえとら) 諸国に命じて牧地を定め、牛馬の放牧を行わせた。

令諸國定牧地放牛馬。

 牛や馬は物資輸送、駅馬(官人や使者が移動のために用いる官馬)、軍用馬などの用途に必須の家畜でした。庸・調などの貢納物の輸送や役人の移動は、律令制に基づいた国家運営になくてはならないものと言えます。

みちのく
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牛馬の飼育環境を整えることは重要な課題だったことは間違いないでしょう。




薨去(明日香皇女)

夏 4月4日(癸未みずのとひつじ) 浄広肆じょうこうし(従五位下に相当)明日香皇女が薨こうじ(親王または三位以上が亡くなること)た。使者を遣わして弔問させ、賻物ふもつ(葬儀のための品)を贈った。天智天皇の皇女である。

淨廣肆明日香皇女薨。遣使弔賻之。天智天皇之皇女也。

明日香皇女は天智天皇の皇女です。母親は阿倍氏の女性で橘娘たちばなのいらつめという人です。先帝である持統上皇の異母妹にあたり、前年9月25日(丙子ひのえね)に亡くなった新田部皇女は同母妹です。

柿本人麻呂の挽歌

明日香皇女が亡くなったとき、宮廷歌人・柿本人麻呂により挽歌ばんか(人の死をいたむ歌、弔いの歌)が詠まれ、『万葉集』に3首収められています。

みちのく
みちのく

長い歌なので、一部の内容を要約したものを以下に掲載します。

『万葉集』巻第2 挽歌(部分要約)
明日香皇女の城上きのへの殯宮あらきのみやの時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首(歌番号:196)

春には花を髪に挿し、秋にはもみじ葉をかざして親しい夫君と手を取り合って遊んでおられたのに、夫君のもとを去ってしまわれたのですか。
もう永遠に妻に会えなくなった夫君は、朝鳥(毎朝巣から飛び立つ鳥)のように毎日殯宮に通われ、夕星ゆうつづ(夕方の西の空に見える星。金星。宵の明星)のように落ち着かずあちらへ行ったりこちらへ来たり、夏草のようにしおれてしょんぼりとされている。まるで大船が波間を漂うように心を落ち着かせることができずにいる。
その姿を見ると、こちらも悲しみを慰めるすべがない。

いづみ
いづみ

旦那さんととても仲がよかったんですね…。親しい人の死に遭い、どうすることもできず心が空っぽになってしまったような、あまりに悲しい歌です。

みちのく
みちのく

夫の名は明らかではないですが、天武天皇の皇子の忍壁皇子ではないかという説があります。



遣新羅使の任命

西暦700年ごろの朝鮮半島

5月13日(辛酉かのととり) 直広肆じきこうし(従五位下相当)佐伯宿禰麻呂を遣新羅大使に任命した。勤大肆ごんだいし(従六位下相当)佐味朝臣賀佐麻呂を小使に任命した。大位、少位を各1人、大史、少史を各1人とした。

以直廣肆佐伯宿祢麻呂。爲遣新羅大使。勤大肆佐味朝臣賀佐麻呂爲小使。大少位各一人。大少史各一人。

『続日本紀』の遣新羅使(日本から新羅への遣使)の初見です。

ただし、『三国史記』(朝鮮半島の高句麗・百済・新羅3国の歴史をまとめた歴史書)に記される、孝昭王7年(698)3月条には、「日本国の使者が来た。王は崇礼殿で引見した」とあり、これは文武天皇2年に当たります。

つまり、『続日本紀』の遣新羅使初見は、この文武4年5月条ですが、『三国史記』によるとすでに2年前に遣使が行われていた可能性があります。

文武天皇2年(698)2月3日(甲午きのえうま)条には、新羅使(新羅から日本への使者)が自国に帰国したという記事があり、『三国史記』に記される「日本国の使者」というのは、この新羅使の帰国船に同乗して渡ったのではないかという可能性も指摘されています。

いづみ
いづみ

やや複雑なので、時系列でまとめてみました。

年月日往来出来事備考
文武天皇元年(697)10月28日新羅使(来日)新羅使の大使・金弼徳、副使・金任想らが来日文武天皇の即位を祝賀する使節か
文武天皇2年(698)2月3日新羅使(帰国)金弼徳ら新羅使が帰国日本に数か月滞在した
文武天皇2年(698)3月遣新羅使?(行)日本国の使者が新羅を訪れ、新羅王が崇礼殿で引見『三国史記』より。『続日本紀』には対応する遣使記事がない。帰国する金弼徳らに同行した答礼使だった可能性がある
文武天皇4年(700)5月13日遣新羅使(行)佐伯宿禰麻呂を遣新羅大使、佐味朝臣賀佐麻呂を小使に任命今回の記事。大位・少位、大史・少史も各1人置かれた
文武天皇4年(700)10月19日遣新羅使(帰)佐伯麻呂らが新羅から帰国孔雀や珍しい品物を献上した

同年10月に帰国

今回の遣新羅使の佐伯麻呂らは同年10月19日に帰国し、新羅から持ち帰った孔雀と珍物を朝廷に献上しています。



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