
こんにちは、みちのくです☀️
今回は大宝元年9月から10月に行われた紀伊国行幸をメインにとりあげていきます。

紀伊国は今の和歌山県ですね。藤原京のある大和国から紀伊国…国としてはお隣ですね。でも紀伊国は山深いですから大変そうです。
大宝元年(辛丑・西暦701年)現代語訳・解説 8月〜10月
明法博士に大宝令を講義させる
8月8日(戊申) 明法博士を六道に遣わし【西海道を除く】、新令(大宝令)を講義させた。
遣明法博士於六道。〈除西海道。〉講新令。
明法博士は法律を専門とした学者です。大宝の時代には臨時の官でしたが、聖武天皇の時代には大学寮に常置される官職となりました。

法に明るいから明法博士なんですね!
去る文武天皇4年(704)3月15日(甲子)では、すでに王臣たちに令の内容を読み習わせたとあり、また6月17日(甲午)には、大宝律令編纂者たちに褒賞が行われています。よって、この時点において大宝令はほぼ完成の段階にあったと言えます。

現代風に言えば、法律の専門家を地方に派遣して、新制度に関する地方公務員向け説明会を開催した…というところですね。
西海道、つまり九州地方の国々ですが、これが除かれているのは、西海道諸国は大宰府が統括している都合上、中央からの明法博士ではなく、別の窓口により対応しようとしていたのかもしれません。
13歳以上の皇親の禄
8月9日(己酉) 皇親(皇族)の年が満ちた者は、官職に就いているかどうかを問わず、全員に禄(給与)を支給することとした。
皇親年滿者。不論官不。皆入賜祿之額。
「年が満ちた者」が具体的に何歳なのかですが、これは律令の禄令第11【皇親条】の「年十三以上」、つまり13歳以上と見ると良いと思います。また、今回の記事でいう「禄」は、皇親条の「時服料」のことでしょう。
禄令第11【皇親条】要約
皇親で13歳以上の者は、皆、時服料を給うこと。春に絁2疋、糸2絇、布4端、鍬10口とし、秋に絁2疋、綿2屯、布6端、鉄4廷とする。

13歳以上になると、春秋の2回いろいろな物が支給されるんですね。
皇族はやっぱり優遇される対象みたいです。

そうですね、特に官職についているかどうかを問わず、一律に禄を支給するというのは、皇族としての品位を保つための施策と思います。
災害(大風)

8月14日(甲寅) 播磨、淡路、紀伊の3国が次のように言上した。「大風により潮が高く上がって、田園が損傷しました」と。よって、使いを遣わして農桑(農耕と養蚕)を巡監(あたりをめぐって調査すること)し、百姓を存問(慰労すること、見舞うこと)させた。
播磨。淡路。紀伊三國言。大風潮漲。田園損傷。遣使巡監農桑存問百姓。

これは…高潮のようですね。

3国に被害があったようですが、紀伊国はこの8月14日条の続きで行幸のための行宮造営と造船の指令が下っており、災害対応と造宮・造船作業とで、大変な状況になっていたと思われます。

つまり朝廷は被害調査・被災民慰問の使者を送る一方で、同時に紀伊国を含む諸国へ行幸準備も命じているというわけですね。

少し穿った見方をすると、被害状況の調査だけでなく慰問の使者を送っているのは、この後の行幸に対して不満を抱かせないため、準備を円滑に進めるため、とも見れます。
行幸のための行宮造営と御船の造船

(続き)
また、使いを河内(大阪府)、摂津(大阪府北部と兵庫県東部)、紀伊(和歌山県)の3国に遣わして行宮(天皇が行幸先で宿泊する仮の宮)を造営し、併せて御船38艘を造らせた。あらかじめ水行(船による移動をいう)に備えるためである。
又遣使於河内。攝津。紀伊等國。營造行宮。兼造御船卅八艘。豫備水行也。

行宮の造営と船の造船は、9月〜10月にかけて行われる紀伊国行幸のためですね。

造船…ということは行幸は海路をとったということですね!

そうですね、主に海路を使用したと思われます。
ただ、船は海だけでなく川の使用も想定できますから、必ずしも海路だけとは限りません。
広範囲の災害(イナゴと大風)

8月21日(辛酉) 参河、遠江、相模、近江、信濃、越前、佐渡、但馬、伯耆、出雲、備前、安芸、周防、長門、紀伊、讃岐、伊予の17国に蝗と大風の被害があり、百姓の盧舎(小さな家屋)を壊し、秋稼(収穫)を損なった。
參河。遠江。相摸。近江。信濃。越前。佐渡。但馬。伯耆。出雲。備前。安藝。周防。長門。紀伊。讃岐。伊豫十七國蝗。大風壊百姓廬舍損秋稼。
イナゴと大風のダブルパンチで、かなり広範囲な災害となったようです。イナゴは稲をはじめとした農作物を食い荒らす害虫で、8月21日は今の暦でいうところの10月初旬ごろ、つまり収穫の時期に食い荒らされてしまったことになります。

14日の高潮に続き再び災害が…。しかも、またしても行幸予定の紀伊国に被害が及んでいますね。
詔(調忌寸老人に追贈)
(続き)
詔により、従五位下調忌寸老人に正五位上を追贈した。律令の撰修に参与したためである。
詔贈從五位下調忌寸老人正五位上。以預撰律令也。
「追贈」とは、亡くなった人に対し、生前の功績を称えて高い位階を授けることで、これを「贈位」といいます。
調忌寸老人は、刑部親王や藤原不比等らとともに大宝律令の編纂に参加した官人です(文武天皇4年6月17日(甲午)条)。大宝元年8月時点ですでに亡くなっていたようですが、その死がいつなのかは『続日本紀』には記録されていません。

後には、その子にも田10町と封戸100戸が与えられました(大宝3年2月15日(丁未)条)。『懐風藻』には漢詩1首が収められており、法律だけでなく漢文学や官人教育にも通じた人物だったことが分かります。
高安城の廃城と衛士の配置
8月26日(丙寅) 高安城を廃した。その舎屋と種々の物資は、大倭(後の大和国。奈良県)・河内の2国に移し保管した。
諸国に命じて、衛士を追加で差し出させ、衛門府に配置した。廢高安城。其舍屋雜儲物。移貯于大倭。河内二國。
令諸國加差衛士配衛門府焉。
高安城は天智天皇5年(666年。『日本書紀』は天智天皇6年とする)、大和と河内の国境付近に築城され、唐や新羅の西方からの侵攻を想定した防衛拠点です。当時の背景としては、663年に唐・新羅vs百済・日本という構図で戦争をし、これに大敗したという経緯があります(白村江の戦い)。
2度にわたる修理が行われていたが、廃城
3年前の文武天皇2年(698)8月20日(丁未)、同3年9月15日(丙寅)には、高安城を修理したという記事があります。

2年連続修理のすえに廃城とは。維持が難しくなったのか、それ以前に維持する動機がなくなったのでしょうか?

山城は文字通り山を利用した自然の要塞ですから、修理に動員する人や物資を運ぶのも大変だったでしょう。それに、唐や新羅とも緊張状態を脱して久しいので、いづみさんの考えるように、そもそも維持する目的が薄れたのかもしれません。
山城は攻める側には厄介ですが、守る側も平時から、舎屋・倉庫の修繕、食糧や武器などの備蓄管理、守備・警戒要員の配置、山上への物資運搬を続けなければなりません。したがって、それを維持する費用と労力は相当に大きかったはずです。
同日に衛士を追加で配置している
高安城廃城と同日の記事に、諸国から衛士を集めさせて衛門府に配置したとありますが、これはこの日に「国防の方針」が変更されたと見ることもできそうです。つまり、高安城維持のために人員を割くことをやめ、宮城門を守衛する衞門府の役務に従事させる方針になったのかもしれません。
廃城後も施設そのものは残っていた可能性が高い
この後も、『続日本紀』には高安の名が登場します。
和銅5年(712)正月23日(壬辰)条には、「高安烽」と見え、「のろし」を上げて急報を知らせる防衛施設の「烽」(とぶひ)として機能していたようです。もっとも、この条において高安烽も廃止とされています。
ところが、同年8月23日(庚申)条には、元明天皇が高安城に行幸したという記事が登場します。このことから、高安城は廃城といっても、城の建物や構造物を取り壊して更地にしたというものではなく、少なくとも遺構としては存続していたことがうかがえます。
使者に百姓の暮らしを視察させる
9月9日(戊寅) 諸国に使いを遣わし百姓の生業や暮らしを巡省(各地を巡回して視察すること)し、賑恤(困窮者や傷病人などを救援するため物品を支給すること)を行わせた。
遣使諸國。巡省産業。賑恤百姓。
この少し前の8月14日と8月21日には、17国で蝗害(イナゴの食害)と大風の被害が発生しています。その後の全国的な視察と賑恤なので、前月の広域災害を受けて、被害や生業の状況を調べる意味があった可能性が高いでしょう。
行幸(紀伊国)
9月18日(丁亥) 天皇は紀伊国(和歌山県)に行幸した。
天皇幸紀伊國。
8月14日に河内国・摂津国・紀伊国に行宮を造営させ、同時に水行に備えて造船を行わせていましたが、ここに至って紀伊国への行幸が出発しました。
9月18日に「行幸した」というのは、紀伊国に到着した日付ではなく、おそらく藤原宮を出発した日付でしょう。

行幸は全体を通して、9月18日〜10月19日のおよそ1ヶ月間行われました。
以下に、その全体の旅程図を簡略に示します。

赤線と橙色の線が往路、黄線と緑線が復路。
経路は『続日本紀』と『万葉集』の記載をもとに、通過したと思われる主要箇所を直線で結んだものであり、実際の経路と完全に一致するものではありません。
往路:藤原京→巨勢山→真土山→紀の川沿い→紀伊国府
経路に示した赤線は、往路で利用したと思われる陸路です。
『万葉集』にはこの時の行幸が歌われており、それによると「巨勢山」、「真土山」という地名が登場します。
『万葉集』巻第1・雑歌 歌番号:54,55
大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を 坂門人足
あさもよし紀伊人羨しも真土山行き来と見らむ紀伊人羨しも 調首淡海
巨勢山は今の奈良県御所市東端にある山で、東の麓にはJR和歌山線が通っており、行幸はこの山麓付近を通ったようです。真土山は大和国と紀伊国の国境付近にある山です。
このことから、藤原京を出発した一行は南西方向に進み、紀伊国府付近を目指したものと思われます。

ただし、紀伊国府で泊まったという記述はありませんし、行宮の場所も分からないのであくまで推測ですね。

はい。推測ですが、紀伊国府の近くにある、紀の川の河口あたりから船に乗船し、さらに南を目指したのでしょう。
行幸(武漏温泉)

冬 10月8日(丁未) 車駕(天皇の乗る車。転じて、行幸における天皇そのものを指す)は武漏の温泉に至った。
車駕至武漏温泉。
紀の川の河口部付近から乗船して、そこから武漏まで移動したものとみられます。

藤原京から武漏まで20日の行程、長旅でしたね…!

当時の船は、1日で進める距離は30km程度だったそうです。
まして文武天皇と持統上皇を乗せて38艘の船団ですから、移動の時間はかかりますよね。
武漏の温泉は、和歌山県南部の西牟婁郡白浜町にあったとみられ、現在でも「牟婁の湯」として現役です。
この温泉は『日本書紀』の斉明天皇紀にも登場します。

斉明天皇の時代ということは、1350年以上もの歴史があるんですね!

はい。斉明天皇3年(657)9月、有間皇子が牟婁の湯を訪れ、「景色を少し見ただけで、病がひとりでに消え去ってしまったようです」と斉明天皇に報告したとあります。これを喜んだ天皇もまた、牟婁を訪れたといいます。
行幸にかかわる恩賞や租・調の免除など
10月9日(戊申) 行幸に従った官人並びに紀伊国の国司・郡司の位階を進め、衣服と寝具を賜わった。国内の高齢者には、それぞれ差をつけて稲を給付した。
並びに今年の租・調と、正税から貸し付けた稲の利息分について返済を免除した。武漏郡については、元本分も免除することとた。
罪人は曲赦(特定地域の罪人のみを赦すこと)することとした。從官并國郡司等。進階并賜衣衾。及國内高年給稻各有差。
勿收當年租調并正税利。唯武漏郡本利並免。
曲赦罪人。
原文には「紀伊国」とは出ていないため、行宮が造営された摂津・河内など通過した国も含む可能性も考えられますが、あくまで行幸先は紀伊国なので、今回の恩典は紀伊のみを対象にしたものと見るのが自然でしょう。
正税とはつまり、租庸調のうちの「租」のことを言いますが、この正税の稲を貸付けて、利息とともに返済させる、出挙という制度がありました。今回は紀伊国の人民に対して、その利息分の支払いを免除したということです。

借りた分だけそのまま返せばいいですよ、ということですね。

特に武漏郡に対しては、貸し付けた稲の元本分も全て返済不要、つまり帳消しにするという特別な恩賜をこうむったわけです。

行幸に対応したことはもちろんですが、紀伊国は度重なる災害により被災もしていましたから、手厚くしてあげてほしいですね。
還幸

10月19日(戊午) 車駕は、紀伊国より還った。
車駕自紀伊至。
行幸の列が藤原宮に帰着し、9月18日から1ヶ月以上をかけた行幸が終了しました。
復路:武漏→難波津→竹内峠→藤原京

黄線と緑線が復路。
行幸に備え、河内国と摂津国にも行宮を造営させているため、復路は両国の方面に舵を取ったものと思われます。そして、河内から大和に至る古代の主要道である「竹内街道」を通って藤原宮に帰着したルートが想定されます。
大阪府の説明によると、『日本書紀』推古天皇21年(613)の「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」という記述を引き、これを「竹内街道」としています。
日本遺産竹内街道・横大路(大道)沿道の地域活性化(大阪府)
竹内峠
騎士や担夫の税の免除
10月20日(己未) 行幸に従った諸国の騎士には今年の調・庸を、担夫(荷物を担いで運ぶ人夫)には田租を免じた。
免從駕諸國騎士當年調庸及擔夫田租。
10月9日に続いて、行幸に関わる恩賞ですが、今回は紀伊国だけではなく諸国から行幸に従った騎士と担夫が対象です。
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